夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

Stigma−綺麗なもの、汚いもの3

7月4日は独立記念日でした。
アメリカが、英国からの独立を果たした日。花火の音を聴きながらこんなものを書いておりますww

ユノ氏のお話です。
彼は敬虔なクリスチャンとして良く知られていますね。楽屋で十字を切る姿、お祈りをする姿などが良くカメラに捉えられたりしています。つい先日も台湾バックステージで、十字を切るユノ氏の動画があがっていました。

その彼が最近買ったというのが韓国人の仏僧の書いた書籍であったということが面白かったです。「止まれば見えてくること」というタイトルらしいですが。

ハーヴァード大学院卒、ハンプシャー大講師という肩書きのヘミン和尚という、人気のイケ僧がツイッターでつぶやいた言葉を集めたとの事。内容の紹介も各所に上がっておりました。仏教的な世界観に親和性のある方ならば彼の言っていることはとてもわかりやすく、共感を得られるのでは?とツイやら、内容の紹介、ブログで彼を紹介している記事などを読み歩いて思いました。彼の言葉は非常に平易でわかりやすく、現代の良寛和尚のような印象です。同時に彼の言葉には米国で教育を受けた人に特徴的であるように、個人主義も厚く培われているのが見えるような気がします。

この書籍を選んだ「ユノ氏」についてのブロガーさん達の見解は、「ユノらしい」「さすがユノ」「ユノを見習って読書を」など等、ユノ氏を賛美する言葉は沢山並べられておりましたが、見る限りキリスト教と仏教の距離感については言及されていませんでした。

とりあえずキリスト教にとって仏教は矛盾ですし、異教でもあります。絶対と相対という二つのドラスティックに異なる価値観でもありますし。自分的にはひっかかったのですけれど。

宗教の重さ、というか信仰の重さは米国に住むようになってから「当たり前」に見るようになったものですが、きっとそのあたりの宗教ごとの価値の違いよりも「敬虔」であるかどうか、などを日本人は重く見たりするのかな?とか(これがまたアメリカあたりの信者では、一般的に日本で言われる「敬虔」のイメージとは全然内容がちがってたりするんですけどもw)、かと思えば十字を切る姿に「萌え」たり、神父と牧師の違いとかは、どうでもよかったりするのが、日本なのだろうか?と思ってみたり…ヘンタイバンザイな国ですからね。

とりあえず紹介されていた短文を少し参照してみます。

心に傷を負った時報復心を起こせば自らの苦痛だけが見えます
その代わり自らを鎮め
内面の
慈悲の光に照らして、相手を理解しようと努力する選択をした時 他人に苦痛を与えた相手も、最終的に苦痛を受けていることが見えるようになります。

元々悪いことも元々良いこともないです
自分の心の
」を持って世の中を眺めるから
、良い、 悪いが生ずるだけです


たまには自分が正しいと思うことも 譲歩することができることが必要です
忘れないでください。「自分が正しいことが重要なのではなく私たちが共に幸せなことがもっとも重要です。



誰かのようになろうとして生きないでください
たった一人しかいない自分になってください!
あなたが美しい理由は
世の中にあなたのような存在があなたしかいないからです

特別なあなたをあなた自らが
愛してください


今処した状況をいくら努力しても変えることができなければ
その状況を眺める自分の心を変えてくださいそれでこそ幸せです


ユノ氏が誰にこの書籍を贈ったのか知ることはできませんし、それが問題ではありません。むしろこの言葉たちが「東方神起現象」に対して投げかける問いを考えてみたいと思います。

「許せない」「許されない」「許されない」。最近の日本の報道に特徴的な言説。
その報道に公衆性があろうが、なかろうが報道の対象にのべつ幕なしに下される審判、そして断罪。それはマスコミ報道でこそなかったものの、東方神起事象にも非常に露わであったと思います。

必要なのは「許し」なのか「理解」なのか?

「心の相」とはつまり個人の価値観でもあり、感情でもあると言ってもいいと思います。そして善悪とは、もともと存在するものでなく、それを観るものの心の作用に拠るのだと。そして自分が「正しい」ことが重要ではなくて「共に幸せなこと」が重要だと。

先月3回に渡って、“Stigma”記事の中で書いてきた綺麗なものと汚いもの。それを決めるのも心の相。社会的、集団的な性質を帯びた「心性」によるものと思います。

例えば、「黒人であること」は善でも悪でも無いはずと誰もが知っているはずですが、彼等は黒人であるがゆえに「罰」を受けている、という事実が有ります。

対象がなんであれ、正の意味を与えられたり、負の意味を与えられる事はあります。人間の「個」と表現する事に、自分はたいていはポジティブな意味合いを込めて表現しますが、ニュートラルな時もネガティブな時もあります。これを例えば「我」と言い換えると、我が儘、利己主義的な側面が強調されます。「個」と「集団」という問題を考えるとき、集団は「個」の集まりでも有ることを私としては考えざるを得ないのですが、集団と個というのは、その対象がが属する文化によってどちらかに傾いて評価されていることが多いですね。集団主義と個人主義の文化では、構成員の行動に与えられる評価は違っている。

例えるなら「東方神起」という集団も、それを構成する「個」があってこそ成立しているのですが、その「個」を我が儘の「我」とするのか、個性の「個」とするのかは、ファンの「心の相」が決めることなのでしょう。

確かに人間ひとりの重みなど、大きな集団においては「ちっぽけな我」。私自身、日本を含めた3カ国で企業に勤める経験を合計20年近く持ちましたが、確かに感じましたね、自分はちっぽけであること。そしてフリーランスで仕事する今、企業内で生きる事が全てだとは思えないようにもなりました。コーポレートワンダーランドが「男性社会」である、という事もあるんですけどね。企業にいても個を生かすことはもちろんできますが、女には、それもなかなか難しい。年を重ねるに従い姥捨山に追い込まれて行く世界。年老いてはいけないアイドルの世界にも似ています。

思うのですが、そのようにちっぽけであっても、大事なひとりしかいない「あなた」にこそ、ヘミン和尚は言っているのではないでしょうか?「だれかの様になろうとして生きないでください」と。これまた、東方神起現象を見始めてからこちら、なのですが、ファンの言説の中に「ユンホやチャンミン(の様)になりたい」という言葉を見かけたのは一度や二度ではないという事実は何を物語っているのでしょうか?特にユノ氏についてその傾向が顕著に見られるように思います。このことはまた、記事をあらためて書きたいとは思っているのですが、、、

仏教書に続いて、お数珠のようなブレスをつけた写真も上がったユノ氏。でも、十字もちゃんと切る。彼ほど「faith」という言葉が似合う人は居ない。矛盾といったらそうなのでしょうが、実はその野放図さを自分は愛したりするほうです。誰よりも「努力」する人で有りながら、多分「どんなに努力しても状況を変えることが出来ない」ことは、きっと彼にもあったでしょう。というより、そういう人だからこそ、変えられない状況をもどかしく思うことが多いのではと思います。もうすぐ判決が出てくる「裁判」やら、ファンダムの暴走。彼ら自身の在り方を含む企画や会社の方針。個人のコントロールを超えた事項。それならそれを眺める心を変える事。

もしかすると信仰に是非必要だと思われている、対象たる「何か」も実はさして重要ではないのかもしれない?必要なのは「何か」ではなく、そのように選びとる自由、あるいは信じるという精神作用そのものだったりするのではないか?そんな事を思いながら花火の音を聞いていました。アメリカの「独立」はやはり英国への「反抗」でも有った事、経済的自立でも有った事、そしてそれは単に綺麗事でもなかったであろうことなど、つらつらと考えながら、、、そうです。その時戦った彼らの反抗心が無ければ、今私が「アメリカ」にいる事は無かったかもしれない。ヘミン和尚が「アメリカ留学」することもねwww

ヘミン和尚の本の紹介はこちら。


Colors of my days-ヘミンさん
*追記します。
「共に幸せであることが大切」という考えなのですが。
これができるならば、ファンの争いも減るのではないかと思うのですね。
ですが、愛というものが「差別」と「所有」という感情に基づいている限りそれはかなり難しい。

おおざっぱに言ってキリスト教的には「愛」は人間の我を超える唯一の方法論(つまり神)、そして愛こそが他者を受容するものと考えられていると思うのですけれど、禅的にいうと愛は我から生ずる執着の源であって幻想でもある。そして自分の「我」を明確に認識出来たときにこそ、本当に他者を受け入れられる、と。
かなり大雑把にくくりましたが、「愛」という同じ単語を当てはめるにはあまりに相反する概念ということは言えると思います。

このように異なった考えをユノ氏はどのように自分のうちで消化したのでしょうか?
誰に贈ったかはともかく、仏教のコアとも言うべき部分を上手に抽出するヘミン和尚の言葉に対して彼がどんな考えをもったのだろうか?ということは私にはとても気になるところでもあります。