夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

「ジェジュンというアイコン」と「ヒチョルの短い死」

今回は短めでいきますね。
書きかけだったものがまとまらないでいたところに、ちょっと考えさせられる事案が重なりました。コロラドでまた乱射事件があり、12人の方が亡くなりました。米国に住む私にとっては他人ごとでは有りません。

「アイコン」というとPCのデスクトップ上に表示されるマークを皆さん思い出すと思います。
英語圏での意味合いは、もちろん上と同義のコンピュータ用語でも有りますが、「象徴」という意味にも使われます。シンボル、よりももう少し現実的な意味合いを持って通用していて、現在の英語の文脈のなかでは、シンボルよりも多用されて居るように思います。

さて、標記の件ですが。
最近の「Dr.JIN」の展開。私にはどうも東方神起現象とダブって見えます。

庶子であるギョンタクと父の関係が「ファミリー」を標榜するSMエンターテインメント社に反旗を翻した3人をどうにもこうにも思い起こさせるのです。正妻の子に家督を讓るつもりの父は、「使うだけ使って捨てれば良い」と「庶子である」ギョンタクの事を表現します。父の愛を求め、与えられず、裏切りに揺れるギョンタク。そればかりでなく例えば、女性であるヨネの扱いを巡っても韓国の父権主義、家父長制というもの、巻き込まれる人々の葛藤が描かれ、なんだか社会派ドラマみたいな流れになってきています。

しかもドラマの演出に対するメディアの反応もちょっとした事象です。
先日ジンヒョクが乳癌の疑いでヨネの胸を触診するシーンを「茶の間にふさわしくない」とする記事が上がりましたが、超ミニスカートで挑発的に踊る女性アイドルはそれなら「茶の間にふさわしい」のか?と思わず横槍を入れそうになりました。

製作者が何を思ってジェジュン氏をこのような役に配置し、このような話の展開になっているのかは全く想像の域を出ないのですが、もしかするとジェジュン氏は現在の韓国における社会的な「アイコン」のひとつになりつつあるのではないか、と感じました。

ドラマのOST「生きていても夢のように」の一節。ジェジュン氏の作詞です。

「これは夢なのかもしれない 僕が君につけた大げさな傷あと これが僕への重い罰なのだろうか」

ジンヒョクが手術でつけた「傷」と解釈することももちろん出来ますし、東方神起裁判とその後の活動制限の事を歌っているようにも感じると、以前訳をつけた時記事に書きました。

そして、OSTの発表と前後したドラマの記者発表の席上では、JYJの活動について訊ねられ、「ご存知ないですか?」と、未だに地上波の音楽番組に出演が適わない事を苛立つように返したジェジュン氏。「7年後を見ていてください」との言葉を残しましたね。7年後というと2019年になりますね。これは彼ら3人が裁判を起こして10年後ということになります。その裁判にもつれ込む前夜とも言うべき2009年6月にユチョン氏が発した「10年後」の言葉。これを記憶している方も多いのではと思います。

そして先日発売された二人の東方神起の「ANDROID」。
詩のなかに埋め込まれた「10 years after」のフレーズ。
このフレーズ以外にも「ANDROID」は、かなり色々な意味で「挑戦的」な歌詞で構成されているという印象を受けているのですが、皆様はどういう印象ですか?読み方によってかなりキツイメッセージを歌詞は含んでいるのに、ダンス、ビートの強烈さによって歌詞の細部までは意識させないような作りになっていて。私も最初、ほぼ聞き流してしまっていました。書き出してみてやっと。そしてかなり愕然としたのですが。この楽曲が二人に振られた事は何を意味するのかな??
中でも気になるフレーズは「罵倒ロワイヤル」。東方神起のファンダムを彷彿とさせますし、曲全体を眺めて、東方神起事象を思い起こすのは自分だけではないのじゃないかと思いました。


ジェジュン氏に話を戻します。

昨日から、映画撮影中の落下事故の情報がツイで拡散し、アンチもここぞとばかりに「死ねばよかった」などの言葉を投げかけたと、各所で報告されて居りました。

先日もSJのヒチョル氏が、彼の交通事故に際しての同様のアンチの心無い言動に触れた抗議文をCyに掲載したあと、ツイアカを1年間閉鎖したばかりです。芸能人とはいえ、公益勤務中でもあり、芸能活動をしていない期間までサセンやアンチに付け回されるいわれは無い。ですから、彼の取った行動は当然だと思います。もともと、TwitterなどのSNSのアカウントは、彼らの個人の領域でもありますし。しかしもちろん広報的な意味合いで使われる事も今では非常に多いわけで、SJのメンバーもそう言う意味合いでTwitterをしていると思います。現在芸能活動で表に出ることがない彼がそれを閉鎖することは芸能人としての「短い死」に値することではないかと思いました。

ジェジュン氏のツイに関する情報も、見ているとかなりの確率でアンチの攻撃を受けていることがわかります。そしてこれだけの攻撃を受けても、JYJ from 東方神起を掲げながら彼がそこでまだ立っている事に、逆に驚かされます。

Twitterや他の電子メディア、掲示板などにいくら広報という利点があったとしても「死ねばよかった」という言葉はあまりに道徳的でないのではないか?儒教の影響が韓国よりも少ない日本で育って、海外で生活する私が「道徳的でない」と感じるほどに。しかも事故という本人に非の無い事について?それでは彼らが「道徳的」という部分にも逆にメスをいれて見なければならないのではと思わせられます。

アイドルが社会的、政治的なアイコンになることには賛否両論があるかと思います。しかし、なぜ彼がこのように「アイコン」となりつつあるのか、はとても考えさせらる事項です。演技を高く評価されながらも、彼が「音楽が本業」と今この時点において発言する意味も。

昨日の乱射事件。12人の亡くなった方々は、単に映画を見に来ただけの普通の方々でした。事件の究明は時を待たねばなりませんが、犯人にとって特別に利害関係にあったわけではないことはどうやら分かっているようです。そこに銃があり、犯人の人格(あるいはその障害)が揃ってしまった故に、起きてしまった事件。映画を見に行く、という日常の行為はしかし、このことによって妨げられるべきでしょうか?まさにこれを妨げられたのがヒチョル氏であるといえませんか?公益が終わるまでの期間、芸能人としての短い死を彼は自ら選びました。

アンチの方にどんな理由付けがあるのかは推察するしか有りません。が、理由が有ればヘイトスピーチやアンチ行為は行なっていいでしょうか?それはいじめの定義と似ています。「いじめの被害者に非はない」という意味は「いじめられる側に理由が有るならそれはいじめとはみなさない」と言う意味なのでしょうか?私は、どのような理由があってもいじめという行為は慎む、と解釈しております。

いじめ、あるいは差別の理由づくりは非常に簡単です。自分の価値観にあわない、違っている。それだけでいい。それが仲間内の承認を得ることによって「間違い」あるいは「正義」となり、いじめる契機となりえます。実際そのように差別やいじめは始まる事が多いのではと思います。
どこからどこまでが建設的な批判か、それともヘイトスピーチなのかは自分も含め考えていかなければならない問題と思っています。(結局長いですよね、、、ごめんなさい、、)


$Colorful Sphere-仁

画像お借りしました。
*「アンドロイド」解釈を当ブログでおなじみのとみさんが最近されましたので、そちらもよろしければ覗いてみてくださいね。