夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

現象としての東方神起−『名前』?

『東方神起』はデビューより8年を経て、まさに今、世界ツアーを行おうとしています。世界に出て行く輝かしい「名前」です。そしてその一方、JYJとSM社の裁判は終結がまた先延ばしになりました。

モノには名前が有り、人にも名前が有ります。
記号論までは持ち出しませんが、名前で、人間はものを識別しますね。
では、『東方神起』という名前は、日本で、韓国で、ファンの間でどんな風に認識されているのかな?また、『JYJ』という名前は?

東方神起事象について考えるようになってから一番初めに疑問を感じたのがここだったかもしれません。それはやはり私が韓国ファンの分裂時の「行き方」に多少違和感が有ったからです。彼女らがSM社から東方神起が離脱することを、あまりに当然のように支持した。SM社は東方神起ブランドを保有しているはずではないのか?それを彼女達は考えないのかな?ということでした。何故それほどにその点を争うのだろう???それは明らかではないのか?

つまりは、私も日本人であったという事です。自分の経験値を中心に据えたステレオタイプ、がものを考えるときに働く。。。

今更ながら、なのですけれど、再度当時のファンの言説を見直したり、資料を見直したりして感じたことを書き出してみます。多分「名前」と「個人」に関する捉え方が韓国と日本では少し違っている。そういうことが出てくると思います。

「5人で東方神起である」という5人時代の韓国カシオペアのフレーズにもう少し解釈を加えてみるならば、5人はひとりひとりが東方神起であって、それが5人集まった時にこそ完全体となる、ということであったのではないかと思うのです。理由としては、前回も言いましたが、ここでもまた韓国のファンダムの基盤が個人ファンであったことが大きいのではないかと思います。

前回書いたように、日本ではアイドルグループには箱推しがデフォルトとして機能している事がありますから、日本で東方神起という名前が使われt出したとき、それは「5人組のアイドルグループの名前」であったはずです。まず箱ありき、だと思います。もちろんタイミング的にも日本にお目見えした時には既に「東方神起」として韓国で人気のアイドルだったわけですから。ですが、韓国ファンにとっての始まりは、「5人」という個人が先にあって、その集められた特別な5人に対しての命名であったことは落とせないポイントなのでは、と思うのです。「奇跡の五人」と言うとき、まず5人が有って、それで東方神起ができた、、、と、そう言う意味ではないかと思うのです。

ですから、当然のように名前を使うことに対しての意識も違っていたように思います。それが顕著に現れたのが分裂後のユニット活動だったのでは無いでしょうか?なぜ、JYJの3人は自分たちが東方神起であると信じながら、その名前を使うことなくイニシャルのみで活動し始めたか?それは多分に活動の起点が日本側であったからと言えるのでは、と考えます。つまり日本的常識からすれば、東方神起といえば、5人組の「集団」を指すのであって、個人個人が東方神起いう観念は、日本側ではファンにも企画社にもちょっと希薄だったのでは無いでしょうか?そしてそれは現在もそうであるのでは?と思います。

その捉え方の違いは、JYJのユニット活動が始まった時にジュンス氏が発した「今回、別の名前が必要なんでしょうか?」という問いに集約されている気がします。以前の記事で取り上げたインタビュー中の発言で、5人の中の3人(ジュンス氏、ユノ氏、ジェジュン氏)までが、自分の命に近いところに「東方神起」という名前を捉えていたのは、何も大げさなことではなく、むしろ韓国人としてごく当たり前の価値観であったのかもしれないと言うことです。

ですが、分裂後日本で活動するに当たっては3人だけで「東方神起」は名乗ることはなく、とりあえずといった格好でイニシャルだけの名前で活動に望んだ。これは日本側から見れば商標権含め、ごく当たり前の配慮ではなかったかと思われますが、韓国のファンにとってはもしかしたら、歯がゆくも美しい行動だったのでしょうか。むしろ、その後の韓国での3人側を非難する言葉には「勝手にJYJというグループを作って出て行った」という言説が有ります。(日本側にも有りますが、もし3人が名前を使って活動したなら、どうであったというのでしょうか?)とりあえず、韓国側では、名前を使い続けなかったこと自体が、グループを捨てたというふうにも解釈されうる、という事かと思いました。

東方神起をSMの外に持ち出す、東方神起の移籍、という事ですが、日本のファンにしてみればそんな事は「ありえない」というか全くの想定外、もしくはそれは「不遜な考え」と思う方が多かったのかもしれません。ですが、韓国では、多くのファンがSM社から「東方神起」が持ち出されることをむしろ望んでいたようにも見えますし、それは「東方神起」としての移籍をメンバー自身が望んでいたことが前提となるのでは無いでしょうか?SM社の過去の芸能人訴訟の歴史を知る韓国ファンには、度重なる噂もあり、訴訟の提起されるとっくの昔、2007年あたりから、既にこのようなことが起こるのをファンは想定していたふしが多々有ります。他のアイドルグループである神話やSS501等、メンバーの所属事務所がそれぞれ違いながら一緒に活動していたグループもありましたし、3人だけが出たとしても活動の継続の可能性を信じたファンも多かったでしょう。

そこには個人とグループの名前の「同一性」とでも言うべきものが働いている気がします。

私自身、最近思い出した事件なのですが(古い話で恐縮ですwwなんせそういう年なんで)、郷ひろみ氏がジャニーズ事務所を出てバーニングに移籍したとき、彼は原武裕美に戻ったわけではなく、「郷ひろみ」として移籍したこと。その移籍も「金目当て」だとか「ジャニーさんのせい」だとか、いろいろスキャンダラスでは有りましたが、若干21歳の郷ひろみ氏の口から出たのは「方針の違い」です。ダンサーやマネージャーが彼と一緒に出たのも、JYJの3人のケースと似ています。ただし、彼の場合はそれこそ「個人」ではあったわけです。そして個人であるが故、その芸名と彼という個人の存在は同一性が非常に強かった、と言えます。それは、多分AKBなどと比べて見れば分かるのですが、彼女らはAKBを通り過ぎて行きます。そこにはひとりひとりのメンバーとAKBという存在の同一性というものは希薄でしょう。

私が今思っていることは、「ジュンス、ユチョン、ジェジュン、チャンミン、ユノという5人」と「東方神起」という名前の同一性が韓国ファンにとっては日本のファンよりも更に、非常に強力なものであったのではないか?という事。

カムバック時に二人が二人だけで東方神起の名前を使うことになったとき、5人に戻ることを願っていた韓国ファンダムから上がった悲鳴が非常に大きかった事に、情報操作であるとか、そのように断じる方も居られるのでしょう。しかし、ふたりがSMに残留することに対しては仕方がない、個人の選択の自由と考えたファンも相当数に登っていたにも関わらず、名前の使用という部分に対して、激しく落胆したファンが多かったのは上記のような理由があったからではないかと考えるに至りました。

(長くなりましたので、ここで一旦切ります。次回に続けます。)