夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

愛の泉

前記事で、「愛の無償化」について書きました…

これはまあ、続きかな?
なんだっけ、、、実はそのつもりも無くて書いてたんだけどどうやらトンペンさんたちの間で「大きな木」?の解釈で色々騒いでいたみたいですね…

う〜〜ん。
この本、子供向けの本としてかなり浸透している本だけど、解釈は色々に分かれてるよ?アメリカでも。解釈によって反応もまちまち、、、色々問題提起する絵本って事で子どもが少し大きくなるまでは与えるのを待つなんていう意見もあります

一般的解釈は「わがままな男の子と母親(木)の話」みたいですね。

そう、木は母つまり女。木を自然、男の子を人間のメタファーと考えても、自然≒女(母性)とかんがえる西欧文化の文脈もあるし。逆に木を神やキリストと捉える人も居るみたいです。キリスト教的解釈は私から見るとうーーん、って気もします。だってシルヴァースタインは「レディ・ファーストの因果律」みたいの書いてるしね…どうだかね…

これは共依存の話だ、とかいう解釈も有るようです。それは結構一理有る!

全くのノーマークだったけど、えーべからこんな「爆弾」有ったのね、ってびっくりした(笑)

だってさーー、この木ったら本当に「都合のいい女」よねーー。なんでもあげちゃうんだもん。こりゃ、教育によくねーわ…そんで木が唯一不幸と感じるのが、男の子のいなくなっちゃうこと。で、男の子が戻ってきてくれて「報われ」るわけでそ?一見無償だけど、これも結局有償じゃん、、、てかさ、母親と息子の関係なんて、結構こんなもんよねーー。というのは自分や、周りの親子関係見ててもわかる。母親の息子所有感覚は自覚しててもしてなくても凄い。だって、自分の遺伝子だもん。何を置いても守るし、自己犠牲だって厭わない母親はいっぱいいるっしょ。でも、それも「自分のガキ」だからだっちゅーのよ。。。。

ワタシ的に読むと、シルヴァースタイン自身のミソジニーはそんなに感じないけど、ミソジニーで回ってる世界と男女関係(母子関係含む)の「ありのまま」をどんなふうにも解釈できるように書いてる気はします。てかさ、世界をどのように見るかはアンタ次第ですよって言ってるような本だよね。

でも敢えて言うなら、もし「無条件の愛」が本当に「良いこと」であるなら、木は男の子がいなくなっても「幸せ」であり続けるべきであってシルヴァースタインも「But not really」(だけど、そう幸せじゃなかった)という必要はない。。。だから私は犠牲か無条件の愛かという二者択一の解釈選択ではなくて、ぱっと見のUnconditional Loveの背後に隠されたSacrifice(犠牲)を見ておきたいな。だって私はChristianではないからね。クリスチャン的解釈をしたい、特にプロテスタント的な考えの米人はそこから犠牲を排除しようとするだろうし、日本人だったら「犠牲」にも美しさを覚えるかもしれない、特に自己犠牲。でも、私にとっては、犠牲を無条件の愛と言い換えるクリスチャン文化的なレトリックをユダヤ人であるシルヴァースタインはわざわざ示してくれているようにも思う。

こんなふうな「無限の愛の泉」を「女」や[母」に求める文化は、やはりサンタバーバラの悲劇につながって居るような気はかなりします。

それは永遠に渇き続ける心ではないか?どんなに注いでも満たされない。

だが、「愛の泉」は無限でなどないのだ。愛を生む身体が有限なかぎり。
そして、木は青あおとした葉陰も、見事な枝も実った果実も、すべて失って切り株になった。丸坊主のAKBみたいなもんである。もう誰も何も彼女からは奪えない。

あなたの資源、あなたの愛の泉、、、あなたの命の木、、、
大丈夫ですか?


思いついたので追記: 女を木に例えるのはやはりこの辺でやめないとならないね。 だって私達には足が有る筈じゃない?木が無償の愛だとしても、どんな人間も木じゃないってことだ。