読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

カルチュラルテクノロジーと文化産業について?萌えと燃え2)


思えば80年代って文化産業にとって非常にエポックな事件が次々と起こったんですね。1)の記事で挙げた、マキタスポーツさんも「85年」には大変注目なさっています。音楽が「視覚」を通して消費されるようになったのも、この頃でしょう。劇的な変化は、ミュージック・ビデオそしてMTVの登場。それとCDというデジタル音楽媒体の登場も83年かな?(こちらは劣化しない音楽、そして無限のサンプリングを可能にしましたね。。。)

そう、SMのスマン会長も80年代中盤、米国留学をしてた時に見たミュージックビデオが、彼の芸能ビジネスのモデル、ルーツになったと言って居ます。

イ・スマン氏のこの時の体験が“SMP”という「見せる音楽」の基盤になっている。彼の懐刀であるユ・ヨンジンさんも、それから、あのバークリー出身のKenzieさんも、だから、SMの見せる音楽(つまり、パフォーマーたるアイドルがいて成り立つ)に活動を特化してるからでしょうか、最近はクリエイターとしてあまり表に出てくる事も無くなった気がします。その辺りが、多少J-POPと違うといえば違います。

このパフォーマーを前に立てる事ですが、実はK-POPによる「カルチュラルテクノロジー」の成り立ちを耳にしたザ・ニューヨーカーのジョン・シーブルック記者が、「まてよ?これは(俺達が)以前に、これじゃダメだと烙印を押した「製造されるポップ音楽」そのものじゃないか?」と自身の記事の中で首をかしげる部分があります。アメリカではボーイバンドを始めとする「プロデュース」される音楽と言うものが「クリエイティブ」ではないとされて後退し今はガガなどアーティスト自身がそのアート性を打ち出す、いわゆる「アートポップ」が優勢ですし、いわゆる「アイドル」というものはなりを潜めている、そのような状況がメジャーシーンではあり、その一方ではK-POPアイドルには「熱狂するファン層」が数は少ないながら居ると言うこと。その熱狂度の理由を彼はファンに見たようです。

それは「愛」なのだ、と彼は言います。

ファンと「アイドル」との間で交わされるもの、それが「愛」である、とK-POPのコンサート会場を取材してみて彼はかなり腑に落ちたようです(笑い)。実際ファンが、アイドルと目が合ったと信じ、彼ら彼女らに本当に恋しているらしい、ということにシーブルック記者はかなり驚いたもようです。

さもありなん。だって、そういう「偶像崇拝」の時代は、アメリカにとってはとっくに「過ぎて」いるわけです。マキタスポーツ氏のいうところの「メタ視点」をすでに、アメリカのオーディエンスも獲得しているわけなので、「アイドル=嘘」というのは周知されているわけです。だから、「え?」となる。(ちょっと前に書いたアイスバケツでのYuzukiさんとのコメントのやりとりの中に出した、ウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」。これなどが、アメリカンオーディエンスの「メタ視点」をよく表しています。テレビで古い映画をやっている、それを見る男女もまたメロドラマの演者であり、ところが更にそれを見つめる目線がある。。。。限りなく俯瞰していく目線。。。と、ともに見つめられる対象が、今度はメディアから現実の世界に這い出してくる感覚。「一億総ツッコミ」と言いますが、それ以上に世界規模で、「メタ視点」は文化商品の消費者に獲得されていたって言うことですね。ちなみに『カイロの紫のバラ』も85年。やっぱ85年はエポックだ、、実は「1985」っていう、ノベルティソングもありますなw ノベルティソング、、、最近でいくとファレル・ウィリアムスの「Happy」もノベルティ化してますねえ!)

では、このような状態にあって「偶像愛」とカルチュラルテクノロジーの関係は?
実は、1)で書きましたが、これもマキタスポーツさんが言っておられますが、限りなくツッコミを入れる観衆がその一方ではベタに「1リットルの涙を流したい」と切望しているわけです、と、、、

そしてここに、この間、ぽむちゃんが言われていた「エンタメが人を楽しませるのではなく疲弊させる」のはなぜかという部分もある、と思います。確かに、「愛」を感じて楽しむ事はエンタメの目的というか、楽しみの部分です。普通の恋愛でも楽しいですが、でも本当の人間相手では、自分だけがストレートに楽しむ、という一方通行が普通は許可されません。片思いマニアとか言うならともかくwwでも、アイドルならできちゃう、、、ことが、醍醐味ですよね。しかし、です。この一方通行ができにくくなっているのが「メタ視点」以降のアイドル事情、エンタメ事情ではないかなと思うのです。

前々回カルチュラルテクノロジーは文化産業そのもの、と書きました。

そこに微調整を加えるとすれば、産業革命を経て文化は「産業化」したのですが、現在は更に「テクノロジー化」が進んでいる。主にソーシャルメディアがその役目を担い、商品としての文化が世界に流通する、拡散するその現象の性格、それが「カルチュラル・テクノロジー」ともいえます。ソーシャルメディアの登場によって、アイドルと直接にコミュニケーションすることももはや「夢」とはいえない手の届きそうな位置にぶら下がってますし、アナログ時代にもファンの交流は勿論有ったとはいえ、今は「だれでも」がソーシャルメディアを通じて発言可能になってしまった。アナログ期とは比べ物にならない質量で、ファン同士のコミュニケーションも肥大化しているわけですね。

文化が拡散し、多くの人びとと、共有化が図られるのは素晴らしい事です。ところが、一方でこれが疲弊の原因にもなる。広がっていく過程で、エンタメすなわち「文化的商品」は、摩擦のなかに放り込まれるということがあると思います。この摩擦、には何かが伝わる、「コミュニケート」される際の異文化による摩擦、ということも勿論含まれます。(アイスバケツにたいする「違和感」表明、などがその典型例でしょうね。表明する事や内容を非難しているのではなく、そのようなありかたは「摩擦」とかんがえられるのではないか、という意味です。)

摩擦、は人間の持つ価値観の差異よって起こる。価値観の押し付けはしないと心に決めている人でも、自分のものの見方が文化的な影響を受けてフィルタリングされており、またそれが他人の、あるいは他国の、、、例えば韓流の日本での文化的フィルタと対立することも往々にあるということは否定できますまい。ね?コミュニケーションが膨大になればなるほど、そしてそれが「相互的」なものになればなるほど、そこに関わりを持つ人々の感情も摩擦にさらされます。

しかし、こういったコミュニケーション、主にツッコミによる摩擦とそれに伴う疲弊が何故かやがてベタに転化する。という状況。それは無理もないですよ。「疲弊」すればするほど、人間「癒やし」を求めるんじゃないですか?イタチごっこのように「燃え」(ツッコミ、怒り)と「萌え」(愛、癒やし)は繋がっている。おっかけっこですね。摩擦に疲れルニ連れ、自分の一方的な思いは更につのっていく、、、

対象のアイドルそのものが「自分の思い通りにならない」という批判は定番のようですが、
「xxxxが邪魔」「0000が妨害する」という「他メン」排除願望だったり、
「事務所」や「ファン」のあり方への批判もあり…はあ、疲れますよね、確かに。

確かに経済危機を日本が通過する過程で、「それ」は日本には必要になったのかもしれません。高度成長期からバブル期には「ツッコめば」済んでいた事が、「やっぱり清貧」とか「やっぱり純粋にこれは泣けるわ」、、、がほしい。。。アイドル的に言えば「アイドルなんて歌がヘタでOK」「顔さえ良ければへなちょこでも演技もどうでも」となっていた、、、そこへの「東方神起どーーーーん!」です。。。

「アレ歌がうまいじゃん」「アレ?男らしい筋肉もある?」「ん?踊りも上手いし?」「性格も謙虚?で、凄い努力したのね」という、「そんなん嘘でOK」だったところに「ホント」が来てしまった。(あくまで相対的って事でよろしく、ですがw そして、彼らが日本で始めた頃にはこ韓国の経済、芸能の位置の日本に対する相対的な「低さ」があった事、記憶してますか?)ここがポイントですね。涙を1リットル流したいときっかけを待ってたとこにまさに、、、。「泣ける」アイドルだったんだねえええ「東方神起」。そして、誰かが「本物」と名付けたくなるような「マテリアル」と「精神性」の両方が彼らには備わっていた、そうでしょう?(でも、ここで先日のアラサーちゃんの場面を一人噛み締めますのww 「本当って何?」「本当の」なんて誰かの「主観」じゃないのか?っての。。。あっはw)

だから、「しらけ」から「氷河期」世代にかけてドハマりするファンが劇的に多かったんじゃないか、と思えます。。。まあ、更に下世話な話をしますと、マキタスポーツさんも言ってますが、「泣ける」は「抜ける」と同義なんだよね。。。AKBもトンも「泣けて」「抜ける」。そしてCDが売れる「アイドル」だわ。。。精神的な、肉体的なカタルシスをお約束するのがアイドル。

AKBでも見られた事ですが、結局「抜ける」ほうはマテリアルからポルノ化という状況になり、「泣ける」ほうは「人間性、人格のバーゲンセール」になる。英米ポップ、K-POPはポルノ化が進行してきている状況だし、現在のJ-POPの「応援ソング化」や、日本映画の「ベタ化」はこの人間性のバーゲンセール状況ではないかと思いますね。事務所の売り方に疑問持つ方もいらっしゃるでしょうが、何よりファンがそれを求めてる状況が有るんだと思うわ。。

そしてファンの「愛」(萌え)と「ツッコミ(燃え)」のシンクロニシティという現象。一番激しい例としては「サセン」、それに名誉毀損ものの悪口雑言を垂れるアンチ、「トン卒」しながら韓国に向けたヘイトスピーチを平気で行なってしまう「覚醒元ペン」などが目立ちますが、普通のペンにもどんどん拡大してきてる気がします。先日「赤の喪失」を書いた時に思いましたが、このようにお互いにツッコむ状況を続けて行くと、最後には「個人」という核にまで分解されて行く。。。共感できるところよりも、違いが気になって仕方ない状況に陥るんではないかと思います。

身近な例で言ったら、例えば、いままで共感を持って読んできたブロガーでも、考えの違いが気になって仕方なくなる、、、という状況を想起すればいいと思います。メンバー、事務所、ファン同士の間で「許せない」状況が多々生み出されているとすると、この「批評的視点・メタ視点」によるところが多いと私は思うんですよね。その結果として、先日のトリニトロンオーシャンも有ったのではないでしょうか?

トンペンだけではなく、これは「文化産業」全体に広まりつつある傾向だとは思いますけどね。


カイロの紫のバラ Trailer

Bowling for soup 1985 1985をささっと復習ww

おまけw Happy原宿動画すべてお借りしております

参照:

マキタスポーツ『すべてのJ-POPはパクリである』扶桑社 2014、槙田雄司『一億総ツッコミ時代』星海社新書

ザ・ニューヨーカー、ジョン・シーブルック、The Factory Girls:Cultural Technology and the Making of K-POP October 2012. http://www.newyorker.com/magazine/2012/10/08/factory-girls-2?currentPage=all