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夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

お引越しと『立たざる場所』

某ブログサービスから引っ越して参りました。

まだ、はてなに慣れませんが、アカウントをつくったのはかなり昔の事なのと、読者としては色々読み散らかしていましたので、全体の雰囲気はおなじみな感じです。引っ越しというのは、ブログ等の場合はバーチャルなわけで、私自身の物理的、地理的な位置が変わるわけでもなんでもないですが、サービスが変わることによってそのバーチャルな環境も「実際」にいくらかは変わったりします。ネットはヴァーチャル、と物理的な人生から切り離す考えもあるでしょうが、ネットは独立した世界などではなく我々の現実の中にこそ存在しているもの、と最近は考えるようになりました。そのことでもう一度思い返すのが、自分自身の立ち位置と言うことです。

ブログにしても、ツイッターのようなSNSにしても最近はやたら発言に対するPositionalityが問題になる気がします。いわゆる左右のレッテル貼りなども、最初の段階から互いのポジションを読みこむことで、内容よりも先にその人物を批判の的にできる便利なツールなので、特に政治的な話題でない場面でも、SNSなどではよく見られるんじゃないかと思います。考えるとSNSは戦場みたいなものです。

政治といえば、“Personal is Political"は、第二波フェミニズムから第3波にかけて良く登場するスローガンですが、「個人的なことは政治的でもある」という考えは、もちろん女の生きる世界が「私的」な領域(つまり家庭や給湯室)にとどまっていた事に反対する表明でもあるし、実は私的領域と公的領域はどちらか一方の優位性含めて、それほどくっきりと分けることができるのか?という問いかけでもあると思うのですが。自分の「立場」に意識的になればなるほど、政治的にならざるを得ない。っていうか、政治的であることが大げさではなくなってきてるのが今の世の中だというか?

前の場所でブログを書き始めた時にアメリカでは本当にだれでもが政治に一家言あるんですよ、なんてしたり顔をしていたらあれよあれよという間に日本も同様になってましたが、トンペン界隈では、政治的な動きはもう随分前から当たり前に見られていたことだと思っています。つまりファンの戦闘状態ということなんですが。その基盤に「立ち位置を明らかにする」ということが有ったんじゃないかな?

あたかもネトウヨとヘサヨの激突みたいに、お互いの立場を攻撃することはもちろん、自称とは違うレッテルが貼られて、それを攻撃するなんてケースもまま見られたことでした。これはアイデンティティ・ポリティクスのようなもの。。。のようなものというよりそのままですが、当事者は不在というかそのポジションは盗まれたまま今日まで至っています。

いずれにせよ立場を明らかにというのは、 差異を明らかにして攻撃目標や方法を定めたり、排除したり、敵味方を分かつために有効でしょう。でも、どんなに味方だとして内側の均一化をはかって一時的にまとまっても、人間まったく同じ考えを持って居るわけがないんで、同一化や均質化には無理が生じます。そうなれば、より小さな差を問題として、内側から分裂し、さらなる戦闘が産まれる。いまのトンペン界(JYJペン含む)というのはまさに、そういう状態であると言えるのでは無いでしょうか。。。

棲み分けとは体のいい言葉です。ですが曽野綾子さんの例を引くまでも無く、つまりはアパルトヘイトです。傍から見たら、同じような趣味嗜好を持った人々が、よく分からない細かい論点にこだわりあって戦いを続け、あまつさえ論点を増やしていってもっと分裂していく、怖くて濃すぎるファンダム、でしょうね。

自分自身、ここに来てみて、はじめて自分の「立たざる場所」を考えて見たところです。実は自分の立っている場所をよく知るには自分の立っていない場所を見ることが必要ではないか。。違うことは前提ですが、違うことを理由に遮断すればそれでいいとも思えないからです。きわめて基本的ではあるとは思いますが、色々な方の意見が聞きたいな、と改めて思いました。自分自身の立たざる場所、に立っている人たちの声をもういちど聞いてみるべきではないか?その場所には自分が立つことは出来ないとしても、想像してみることを辞めない為に。。。