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夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

音楽。Exchanging your time and my time....EXOじゃないYO

昨夜はこのアカペラグループThe Exchangeが街に来ていましたので、見に行ってきました。SuperJuniorのカヴァーなんかもやってます。実力あり。YouTubeに動画が上がってますので興味ある方はどうぞ聞いてみてくださいませ。ちなみにチケットのお値段13ドル。貧乏生活なのでアイドルは茶の間のみの私ですが、でも、レストランでもライブハウスでも「音楽」は気軽に楽しめますし、楽しませてもらってます。


Radioactive - The Exchange - YouTube

ところで、音楽ってアイドルビジネスの中の何割くらいを占めるものでしょうか?アイドルは「パッケージ」商品なので、そこのところの配分、配合は企業秘密もあるでしょうし、観客がどれくらいそれを重視するかによって個別に違うという事はありますね。

私は、というとローカルのバーで歌っている友達のバンド(つまりタダ)でも「音楽」は十分楽しめるほうです。というか、もちろんですけれど高いお金を払わないと音楽を楽しめない、という事はない。もちろん、お気に入りのバンドが近くに来て、結構お高い値段でしか見れない、となったら、財布の状況に応じて斟酌するわけですが。でも、実際高いお金を払ったからと言って満足度がべらぼうに高い、というわけでもないんですよね。ただ、高いならそれなりのものを持ち帰ろうという前提は高く設定されてしまうという事はあります。それがポジティブでもネガティブでも。

お高いライブを行う東方神起、JYJのファンは殊に歌の技術や楽曲などに結構こだわる傾向があるようで、私も以前、楽曲MVや歌詞などの読み込みをブログで行って楽しんでいました。楽しめるうちはいいのですが、しかしそういったことがそのアイドル、音楽、楽曲の優劣のJudgementに結びつくような形に世間的にはなりはじめ、ぐったりしてきたというのも事実です。最近は「過去曲」の扱いにかんする道義的糾弾、あるいは技術的な「難癖」ばかり聞こえてきて、うんざりするんですよね。*1

トンペンは『トン原理主義』に陥りがちで、常にその「価値」が揺らがないように思うのかもしれません。でも、、、

音楽学、メディア論の増田聡さんが、歌、特にポップソングの意味を巡って書かれていた論考『歌の意味とは何か?ー声、歌、歌詞の意味論に向けて』が、非常に面白かったので数段落引用してみます。*2この引用部分の前段では烏賀陽弘道氏とボニーピンクの歌詞をめぐる論争が語られており、その「論争」がいかに「作品の良しあし」を巡って勝ち負けに帰着してしまったか、を伝えています。

サイモン・フリスは、歌詞を持つポップソングが聴かれるとき、われわれは実際には同時に三つの意味の水準を聴いていると言う。ひとつはことばとしての「歌詞」である。それは読まれるものとしての詞であり、言語的な水準で意味作用を行なうことになる。次に「レトリック」であり、それは歌唱という言語行為が行なう、音楽的発話の特性に関わる。語調や修辞法、あるいは音楽とのマッチングや摩擦などが、単に歌詞を読むのとは異なる意味形成を生じさせる。最後に挙げられるのが「声」である。声はポップの文脈ではそれ自体が個人を指し示し、意味形成を行なう。このことはクラシックの歌唱と比較してみれば明瞭であろう。クラシックの歌手の声は楽器であり、取り替え可能なものであるが(異なる歌手が同じ歌曲を歌っても、その曲の「意味」はさほど変わらない)、ポップの歌手はその声自体が独自の意味をもつ。同じ歌を違う歌手が歌うとき、両者の意味は異なるのだ。

 中略

歌は理念や言明を説明するというよりも、感覚を作りだし聴衆に接合することに奉仕する。メッセージ・ソングの有効性はこのためにしばしば阻害される。歌において実際に聴衆に向かって提示される「意味」とは、完全に言語的なものに還元できるわけではないし、あるいは逆に完全に音楽的なものでもない。言語と音楽が声によって融合され、聴衆の耳に提示されるその「出来事」が、言語行為的にいかに機能するかによって、歌の意味は多様なありかたをなすのである。


烏賀陽とボニーピンクの論争に見られるすれ違いは、歌と聴衆とが状況依存的に取り結ぶレトリカルな関係抜きで、「歌の意味」を同定し評価(あるいは断罪)することが可能である、と見なすポップ・ミュージックの言説編制に起因する。「歌は世につれ、世は歌につれ」とはいいながら、われわれは「声と歌詞と歌」を同時に聴くとき、そこで何が起こっているのか、まだ何もわかっていないに等しいのだ。
声による歌は身体のサウンドである。それは言語と音楽を同時に運び、言語と音楽の意味作用を越えた「第三の意味」、意味形成性を派生させる実践だ。「歌」という出来事を性急に切りつめ価値判断を下す前にわれわれがなすべきことはおそらく、その出来事に関わる多様なファクターを詳細に見据え位置づける作業であり、けっして同定の容易な「言語的メッセージ」をその出来事全体の意味と取り違えることではない。

私も御多分にもれず、わりと作品を中心に音楽を捉えるほうでした。そして歌詞の持つ言語メッセージをリテラルに受け止めるほうでもあります。でも、この4年、彼ら5人を見てきて思ったのは、どんなに頑張って努力したとしても彼らの技術も体力も容姿も右肩あがりにはいかないだろうし、たぶん逆になることは覚悟しなければならない。そして我々ファンの小手先の解釈や批評などは別に「屁」でもないという事です。

確かにJYJの作品群は自らの手になるものが多く、それは彼らの実存を表している点で魅力的です。そして、東方神起のほうにも井上真二郎さんやユヨンジンさん、園田凌士さんなどいとおしいシグネチャー作家陣が居ます。が、それらはすべて彼ら{アイドル}という「媒体」を通過しなければ私たちに届かない種類の音楽という事に本当に遅まきながら気づいたというわけで。また最近は「媒体」を通過する楽曲の多くがグローバル音楽制作会社が企画立案したもの(アウトソーシング)であることも多いですよね。

そして私たちは多分に作品そのものではなく「彼ら」を見ているし、聞いている。音楽を運ぶメディア=媒体としての彼らに課金しているわけですよね。

だからというか、彼らの音楽を語ることはあんまり意味がない(というか、ほかのどんなポップ音楽も同じ事なのですが)、という事に気づかされたのと同時に、音楽の持つ価値というのはその時、場所、誰が誰の音楽をどのような状況で聞くのかなどによってさまざまに変わりうる、一定のものでは無いという事にもあらためて気づきがありました。JYJのコンサートブランドじゃないんですけど、それこそ一期一会なんだと思います。たとえ同じ楽曲を同じ場所で同じ歌手が歌ったとしても、毎回同じに歌える/歌うわけではない。聞き手の状況も違ってくる。

歌や音楽を「出来事」として捉え直してみたときに、それが現在でも過去でも価値は中立する、ということを考えさせられます。新しいものがすべてなわけでもなければ、オリジナルがすべてなわけでもない。という事です。自分がその音楽と接合した時、場面や状況、感情、その時の彼ら。全てを確認する作業は当然ながら不可能ですが、それでもその感覚がそこに一度だけ存在した事は確かでしょう。

取り敢えず、昨日見たThe Exchangeのみなさんは、非常に声量もたっぷり、愛嬌も有って、清々しかったですし、元気をもらえました。「アイドル」とは、思わないけどね(笑)そしてついでに「ああ5人のアカペラも聞きたいな」、と思いました。

*1:これはアイドルだけに音楽や歌詞、歌唱だけに留まらず、ダンス、衣装、舞台演出にまで及びます。アイドルオタとしては、その辺の批評というのが専らするべきことなんでしょうが。

*2:

歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて | 増田聡
What is A Meaning of Song? : Toward Semantics of Voices, Songs, and the Lyrics | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) pp.22-25