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夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

「私」が東方神起を「消費」する理由。(2)

 続きです。(1)はこちらになります。

性はファンタジーであるとともにリアリティでも有ります。性的な消費、にはアイドルから地下アイドル、AV女優、キャバクラやホスト、風俗なども含まれるでしょう。音楽とはまた違った市場が重なってきます。性と音楽、舞踊などが被るのは昔からの事なのですが、かえって現代では切り離して考えようとする方が多そうです。一緒くたには考えたくないというか?珍しく過去記事「ポルノ化する音楽」にキモいというコメントいただきましたが…*1

そういった「類」、のものとして、「アイドル」を「買う」という事には、抵抗感を覚えるというのはひと昔前なら「女」(特に高齢の)には至極当たり前のことだった気がします。しかし、(1)に書いたように西森さんの記事からも読み込めますし、北原みのりさんの『さよなら、韓流』などを読んでも実感されますが、男性の性を「アイドル」という形態で消費することは、2000年代までに日本を筆頭に東アジアの女性に非常に一般化されました。

消費可能な「アイドル」が棚に並んでいるなら、単なる消費行動としてみればそれを買うことは消費者の「権利」と言えますし、構造的には男性アイドルも女性の商品化と消費と同列に捉えるしか無い。しかし、なぜか「女」が「性消費」の権利を行使しようとする時にまとわりつく気持ち悪さ、つまり言われるところの「罪悪感」はいまだ存在する。西森さんの書かれていた事のひとつはパフォーマンスするアイドル、つまり客体になる「男性」への敬意と尊重ということでした。確かに私も常々彼ら、アイドル一般、東方神起メンバーについても、「人間」だろう、とは感じるわけです。私も彼らも同じ人間のはずですし、勿論敬意をもって私たちはパフォーマンスを観覧したり、声に耳を傾けたりしているはずです。そして言ってしまえば、「トンペン」にはメンバーの「人格」や「パフォーマンス」を神聖視する傾向はとても強く、「尊敬」や「敬意」という言葉はあらゆるファンブログ、SNS等に溢れかえっている。でも彼らの身体性、「エロさ」といったものを同時に、そしてとても即物的に扱うフェティシズム*2も溢れかえって居る。

「私」は彼らを「モノ」として扱う消費行動の一端を確実に担っている。彼らの肉体を鑑賞し、その美しいイメージを利用して関係性を舞台上のファンサービス、FFなどで楽しむ、その目線のどれに敬意があってどれが敬意のないものか、くっきり線を引くことは可能なのでしょうか?例えば、女性アイドルの生き方に対して、「アイドルの実存」を見出す男性ファンもいたりします。で、そのような敬意をもっているならば、また、彼ら彼女らが尊敬に値するパフォーマーで有るならば、そういった即物的な鑑賞の目線を向けても彼らを傷つけることはないのだろうか?いったい、敬意やリスペクトという単語の氾濫は何らかのエクスキューズであるとして、それは足りているのか?彼らのお誕生日に聞く「産まれて来てくれて有難う」という言葉に感じる違和感はどうすればいいのだろう?

消費される「モノ」としての男性アイドルと、「主体的/能動的消費者」の前線を歩いてきた「女」。家電やブランド品、海外旅行、文化、芸術などなどを消費してきて、消費者としての地位を(つまり経済力/購買力)を確立した女が最終的に到達しようとしているのは性(あるいはケアや感情、人間そのもの)といった、今まで男性ジェンダーによってほぼ独占的に「造られ」所有され、管理されてきた分野なのかも知れません。「こんなことを研究したい」と私が相談した指導教授は日本の中年女性の消費傾向について、「なぜ靴やバッグではなくきれいな男の子なの?」と真面目に訝っていましたが。

先日読んだサイゾー8月号の田中東子さんによる記事「”選別”に身を投げ出す男性アイドルと消費社会の中で”権利行使”する女性たち」には、眼差す/眼差される事と消費、男性性の客体化による消費主体と客体の逆転現象が最近注目のアイドルエビダン(恵比寿学園男子部)を通して書かれて有りました。記事によればEBiDANというニュータイプのアイドルのあり方は「接触型」と言えそうで、韓流や2.5次元舞台俳優などに共通するプラットフォームをもっているようです。すなわち、消費者が「作っていく」タイプ。田中さんは、その様子を、

 

EBiDANのファンたちは舞台上のパフォーマンスに集中するよりも、ミックスと呼ばれるオタ芸やメンバーへのお約束的なコールをかけることに全力投球している..中略..ここではもはや、パフォーマンスの主導権は男性アイドルたちからファンの女性たちへと委ねられてさえいるようにも見える。

 

と描写し、かつては「見られる客体」であった女性たちが躊躇なく「見る主体」となってその場を占拠し始めていると分析されています。これはまた「消費すること」で「権利行使」をアイドルの上に行うことでもあり、しかしながら彼女は、女が「消費」を通してしか、「権利行使」できないのではないか?という疑問を最後に投げかけるのです。*3

私自身2000年代中盤以降、斎藤工さんなどいわゆる「テニミュ」俳優さんたちのファンダムに身をおいた経験もあり、韓流・K-popアイドルとファンとの関係性との共通点も個人的にだいぶ感じてきました。

東方神起のエピソードで、トンペンならだれでも知っているであろうモノに、彼らが日本で驚いたことの一つに観客が一緒に歌わずにきちんと着席したまま(一定の距離を保って)静かに聞く、といったことがあげられていたと思いますが、そういった「距離感」は外側からの韓流の流入(それも大きいとは思いますが)に限った現象ではなく、実は内側である日本のアイドル業界からも縮められて、どんどん無くなって来ているようです。上記の田中東子さんも文中で男性アイドルの売り方が女性アイドルのそれに似てきているという事を指摘されているのですが、私も東方神起のファンダムとAKBのファンダムに個人ファン化など共通項が少なからず見えるという形で認識しています。(また、そのファンダムはホモソーシャルと常に結びあったりネゴシエートしている事も。)

男性を商品として消費するという事で浮かんでくるもう一つの事例は2000年代中後期非常に盛んだったホストクラブの事です。こちらのホストドキュメンタリー映画 ジェイク・クレンネル監督の「The great happiness space:Tale of an Osaka love thief」が、その内実にかなり迫っていると思います。

youtu.be

*4

YouTubeで見られるようになったのは最近のようですが、通して見たいかたはDVDなりストリーミングできっちりとご覧ください。(このほかに必読と思われるのは中村うさぎさんの『愛と資本主義』です。)この映画ではホスト自身が自分を商品だと言い、女の子の夢を叶え、癒やしてやるのが仕事だと言います。ホストは女に選ばれる存在だと自ら認識しているし、映画を見ている方には「癒し」や「夢」という言葉で語られる幻想が売り買いされる模様が見えます。自らも接客業に従事する顧客の女性の多くも気づいているようにうかがえる。ではなぜホストクラブの顧客たる女性たちは「わかっていて」そのような幻想を買うのか?なぜ買いたいのか?

この映画を友人達(白人ミドルクラスの米国女性)に見せたとき、なぜ「日本人女性」は上記のような欲望(Desire)をもつのだろうか、なぜもっと簡単にセックスを買わないのか?「愛」の幻想を買わねばならないのはなぜか?というのが、彼女たちに共通した疑問でした。

もちろん一つ目の答えは(1)に書いたとおりに買うべき商品が「そこにあるから」でしょう。米国ではこういう業態はほぼ無いに等しいですし、「マジックマイク」のような男性ストリップは一般的とは言い難い。消費しようにもできません。*5二つ目は「できるから」。田中東子さんの記事でも言われていたのですが、「消費」の主役に躍り出た女が当然の権利として「すなる」ことのひとつに「性的消費」もあるのではないか?女が性的な欲望を持つことへのタブー感は、フェミニズムの進行とともに薄れてきました。男性が女性アイドルを性的に消費しているのは明らかで、そういった消費形態が消費社会を代弁するものであるならば、女だけがそれをしてはいけない、という事もおかしいし、男性が客体になってもおかしくない。事実、アイドル消費を含む関連分野と言える腐女子コンテンツの多くもそうした商品創造、消費構造を受容しています。

ファンが消費行動でクリエイターに対して圧力をかける事が可能なまでにその影響が大きいのが韓流や現在のアイドル消費の姿です。「ファンの欲望と妄想に寄り添うようなファンサービスが提供され」、「チョイスし快楽を得られる自由」を獲得した「女」、そして、それゆえそこに生まれる「消費への従属」との葛藤、消費に従属することからの脱却の難しさを田中さんは上記記事にて指摘しています。

どんなアイドルの姿がほしいのか、それはなるほど自由なチョイスです。彼らにそうなってもらうために「課金」する。そのようにアイドルを制御できる事に気づいた時に待っているのは中毒です。でも彼らをどんなに愛し、その生を感謝し、欲望しても、消費する以外に関係を持つことが不可能であるという事実は、選択の余地のないシングルチョイスです。すべてが消費可能な「商品」となる社会(つまり、私たちが生きている現代、資本主義社会の事ですが)においては「愛」とは「フェティシズム」の別称でしかない、という事でもあります。

 

 

愛と資本主義 (角川文庫)

愛と資本主義 (角川文庫)

 

 

さよなら、韓流

さよなら、韓流

 

 

*1:確かにキモイかもしれません。例えばポルノに見られるような「典型的」性愛ファンタジーが現実に漏れ出して、あたかもそれが当たり前、あるいは「本質的」にそうなのだと一般的に考えられるようになる。HENTAIやBUKKAKEが米国ポルノ業界に定着するまで、そんなに時間はかかりませんでしたし。何事によらず、環境により進化、変化はおこるので、一つのものがずっと永遠不変なわけでもないですが、何よりも怖いことは「一般的」とされた考えが他を侵襲して、排他的になることで、ネットはそれを非常に効率的に拡散できる道具だという事です。

*2:尻、胸、唇、指、股間、腕、脇、等を切り取るようなフレームワークは、女性アイドルに対するものとあまり変わらない。

*3:「”選別”に身を投げ出す男性アイドルと消費社会の中で”権利行使”する女性たち」月間サイゾー2015年8月号。P90-91

*4:The Great Happiness Space 監督:Jake Clennell(2006) 

http://m.imdb.com/title/tt0493420/

http://www.thegreathappinessspace.com/

*5:「マジックマイク」は小粒ですが成功したといえると思うので、こういう映画が盛んになることによって一般化する可能性はあり、日本やアジアとはまた別の形態で「男性性」の消費を行っているということはもちろん有ります。