読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

Stigma 2016-アイドルの終わり

4年前にこんな記事を書きました。


ravensk.hatenablog.com

ユチョンさんの事件に関する報道は、アメリカの韓国系メディアでも扱っていますが、日本や韓国でのようにマスメディアで垂れ流しってことは全く無いです。よくも悪くも文化商品としてのK-POPはサブカルですから。

この件に関して今の時点で私が言いたいことは以下のようになります。

まず事件の是非とは別に私がユチョンさんが好きなことは変わりがありません。

第二に、事件の是非を考えるときに、このような職業、ビジネスカテゴリの存在はとりあえず韓国の重厚な「家父長制」が基盤になっているだろうという事。女性たちの自律的な就業意思、はもちろん存在し尊重もされるべきですが、その背後には女の性(処女性、美醜、若さなど)を商品化する社会のシステムがあるという事です。別にこれは韓国に限ったことでは有りませんし、「国家」はいろいろな意味で「性」を管理したがるものですよね、社畜であれ、家畜であれ。。。家父長制が日本軍の慰安婦制度を後押しする結果になったのも、それが「娘」を主要交易品、商品としたからという部分があるでしょう。*1現代において、先進国では少子化、一人っ子の増加が男の子の優位性を幾分奪い、また大戦への全世界的な反省から性別や人種間の不平等を縮小しようという現代の国際的機運はありますが、それであってもいまだに性サービスは女性や若年層への搾取という様態から完全に脱却しているわけではなく、常にそこには搾取する側としての顧客、雇用主、ピンプなどの存在がある。

しかし、ここまで書けば賢い読者諸姉はお気づきだと思われますが、この構図は「女、娘」を芸能人に置き換え、雇用主やピンプを芸能事務所やメディア、ファンに置き換えても成り立ちます。*2

そして搾取は芸能というジャンルの中でも「アイドル」に対して最も過度に行われる。次々に起こったアイドル(あるいはイメージの偶像化を多分に伴う女性シンガー)へのストーカー的襲撃、アイドルタレントの不倫に伴うメディアの対応、SNSでの排斥等はその一面を見せているのではないでしょうか。

アイドルという存在が疑似恋愛対象にとどまるのかそうでなくなるのかというミクロな視点をさておいても、大きな理由としてははそれだけアイドルは東アジアの社会全体の持つヘテロロマンチックラブ(という物語)と家父長制(というシステム)にからめとられた存在であるからではないかと思います。アイドルを供給するほうも享受する側も、異性と出会い恋に落ち、結婚し、生殖することが人間の最高の幸せでありかつ義務であって、美しさは最大の力であり、性的オーガズムは必要かつ正義であり、それらを得ていないからには人間的に何かしらの欠陥があるという風な共同幻想(あるいは強迫といっていいかもしれない)を持っている。

疑似恋愛対象であるばかりではなく、そんなふうに社会が求める理想の恋愛や結婚、そのうえ家族(という生殖システム)を体現すべきなのがアイドルであるとすれば、もう彼らにアイドルでいてほしくない、というか、自分が彼らをアイドル視するところからやめようか、と思い始めています。

貼り付けた過去記事を書いた時には、John Mayerの当該の曲が好きであり、彼の曲のミソジニー論議を彼の社会「描写」への反発、リアクションとして受け止めていた私ですが、最近、そうですね、具体的には例えばSMAP騒動を経て、やはり社会を変えるには描写するだけではいけないのではないか、という風に認識が変化してきました。

例えばSMAPがそれぞれ固有の人間である事をSMAPという形に固執する形で超えようとするなら、それはどこかにやはりひずみを産むのではないか?と思うようになったんですね。SMAPという名前が生きていたとしても、ひとりひとりが生きていないのなら、それはやはり自分にとって「SMAPの死」を意味するのです。

そして「アイドルの解体」、に私は取り組んでみようと思っていますがこれは私含む腐女子の皆さんの好きなはずの「男の絆」の解体を意味します。(これは女性アイドルでも男性アイドルでも共通です。)それでも、いまの自分が到達できた認識の地点として取り組みたいと思っているのです。*3

参照:

「アイドルの読み方-」混乱する「語り」を問う 香月孝史 青弓社

「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う (青弓社ライブラリー)

「世界に一つだけの花」の意味ーSMAPが教えてくれたこと 小野登志郎 太田出版

「世界に一つだけの花」の意味―SMAPが教えてくれたこと

「タナトスの子供たち」過剰適応の生態学 中島梓 ちくま文庫

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

 

*1:今回の騒動と重ね合わせる方が多いのですが、気になるのは「私のお爺ちゃんはレイピストではない」という慰安婦否定派の主張とユチョンは潔白という主張がどうもダブって見えてしまう事です。女性たちを売春婦と侮蔑するのも慰安婦否定派の方々の典型表現と合致します。どちらにしろこういったサービスの利用をしていないという潔白まではありえないのではないかと思いますが、気にすべき点、そしてそれこそ慰安婦報道の歴史とも重なる部分でもあると思っているのはまたしてもメディアがセンセーショナリズムで動いている事です。過剰に露悪的な演出を施した記事を拡散する事はどの当事者にとっても尊厳を傷つけられる事になり、事実に対する認知を歪める事になります。戦地に向かわせられた日本軍の兵士誰もが「民族的に野蛮」であったという言説が正確とは言えないのと同様「慰安婦というのは嘘つきの売春婦である」という議論は的を得ていない。おかしいのです。両者は両方ともが異なった意味合いに於いて戦時、搾取されていた筈ですがお互いへの攻撃(弱者間の利害の衝突、ヘイト)によって国家による性のコントロールや、植民地主義という実際に搾取していた側が後景に隠されてしまっている。

*2:実質この報道によって一番利益を得ているのはいったいどこなのかな?。自称「アンチではない」と言われる一群の方々が「アイドルとしてはあ~終わりよね」的に楽しくて仕方がない風につづられているのを見るにつけ、まあアイドル自体が「終わり」にさしかかっているとは想像もしないのかな?と思ったりします。そしてこういう物言いは、風俗嬢や売春婦を侮蔑する時の「落ちたら終わり」的な物言いと非常に似通っていますね。

*3:アイドルの終わり、は間違っても耐久消費財(商品)として彼らを買い、消費した挙句に「捨てる」という意味ではありませんし、アイドルではない「俳優」やら「ミュージシャン」へ鞍替えを行うという事でももちろんありません。そしてパフォーマンスを行う人にたいしてのファンタジーの全てを手放す、という事でもありません。その辺は誤解されないようお願いいたします。。。。