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夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

アイドルがホモソ(絆)を救う?

なぜ男性アイドルグループが英語圏ではボーイバンドという呼称なのかを考えていたのですが、そのうちにそもそもバンド(音楽集団としての)がなぜバンドと呼ばれるかを考えたら、もっと話は分かりやすいと思いました。バンドといって一番に人々が思い浮かべるのは昨今はロックバンドなのでしょうが、まあ古風に言えば「楽隊」です(笑)。ボーイバンドというとアカペラを思い出す人も多いと思われますが、そもそもその身体性(少年の姿態および美しい声)をマテリアル化した少年合唱団なども、起源的にボーイバンドと呼びうるものではないでしょうか。それ以前に英語のバンドという言葉は帯でもあるし(ラジオの周波帯なんかもそうですね、同一性を表している。)、何かを何かと結びつけるものでもある。

では今日のポップカルチャーにおいて、ボーイバンドが何かと言えばやっぱり「絆」、ですよね。男子の。

bandの直接的な意味も「絆」ですし、その「絆」が(おもに女性のオーディエンスにとって)男性アイドルグループの重要な商品価値の一つになる事はごくごく自然なことと言える。

しかもK-popグループの男性アイドルの場合は背後に非常にホモソーシャルかつホモエロティックなファラン文化があり、現在も続く軍事文化があります。「絆」がアイドルグループのファンタジー的萌え要素として以上に現実味を帯びていることが、さらにファンの萌えを煽ったりするのではないかと思います。それは、ファンが兵役に就くアイドルに対して銃後の母の様相を呈していることからも想起されます。勿論、これは日本や他のアジア系男性アイドルグループにも概して言えることですが、短期ではあっても男子皆兵制度を採る韓国アイドルに最も顕著にみられる特徴ではないでしょうか?

女性オーディエンスは彼らのホモソーシャルを一般的に肯定的に受け止めているようですが、特に日本人女性、そして腐女子方面にこのタイプのファンが多そうです。前記事でやおいが脱構築と書いたんですが、現在の日本のオーディエンスはK-popアイドルに対しても非常に構築的なんですね。セドウィックの例を前記事にもひきましたが、もはやホモソーシャルをホモエロティックと読みこむことは何世代もフジョシ文化を重ねている日本では何の抵抗もなく構造化されてしまっているといってもいいかもしれません。

男性で、この仕組みがわからず、腐女子怖いと言っておられる方々は、脱構築方面ではなく、こちらの構造化されている方面を見てみれば納得しやすいかもしれません。つまり、ヘテロセクシュアルで常に行われている関係性(つまりパワーによる差異化)の再生産を男性キャラ同志の間に置き換えてみればいいのです。エロティックな要素を含んでいるだけで、一般に社会で行われている人間の関係性と大差ないと思いますよ?女性アイドルの「身体」が消費されるのとほぼ同じやり方で、「男性アイドル同志の関係性」が消費されている、ということがわかると思います。要は誰が誰をマウントしちゃうのか?が非常に重要というわけですね。でも、女性アイドルの男性ファンなら、百合でも無けりゃ、誰が、という部分は問題じゃないでしょう?主体は常に自分の目線だから意識される事が無い。

かたや男性アイドルグループの女性ファンはCPファンであることが多くその「絆」を愛着の対象としている。勿論ふつうに自分がアイドルと疑似恋愛するタイプのファンも多いですし、身体パーツ消費も単体萌えもちゃんとありますが、男性が女性アイドルを自らの「嫁」化する現象に比べ、圧倒的に彼女らは誰かを誰かの「嫁」(あるいは姫)にしたがる現象があります。だから男性のアイドルファンが自分と女性アイドルの間に関係性(所有感)を築くのとやや違い、アイドル当人を透過して「カップルの関係性」を対象化、オブジェクト化する傾向にありますよね。当人たちへの執着と関係性への執着が不可分になっている場合も多く、さらにはそれを通り越して「愛」や「関係性」のみのファンと化しているのが見受けられる事もあります。いわゆる絆ペンとか。それが面白いところですが。この対象となる関係性は「差異化」や「所有への執着」というヘテロセクシャル的な関係の再生産であることも多いのですが、しかし、性の起源を差異化におくとすれば、現在の日本の実社会において「対等な愛やセックス」というものは不可能に近いわけですし、想像の範囲内にもないのかもしれません。或いはしがない現実を受け入れる手段として二次創作においてそういうものを再生産しているのかもしれない。表現物において(FFやファンアートなど)ホモエロティックを扱いながらも非常に異性愛的な表現が見られるのは、実社会の反映として頷けるところなのですが。(ホモソーシャルは非常に異性愛的でもあるってことですね。)

そこなのですがじゃあ一体アイドルファンおよびアイドルは今のこの日本においてホモソを救うために機能しているのか?という疑問が湧いたんですね。

で、実は先日、二村ヒトシ氏x金田淳子氏x岡田育氏のご本『オトコのカラダはキモチいい』を読ませていただいたのがきっかけで、今度は中村淳彦さんの『ルポ:中年童貞』に手を出したのですが、めちゃ面白かったです。そのなかに在りましたよ。アイドルオタクで中年童貞というケースが。アイドルとの疑似恋愛で満足が得られ、もはや現実の女が不要になっているケース。この場合は、女性アイドルが彼のホモソ的心性をアイドルオタクファンダムの構造において救っているわけです。

中年童貞のルポでは女性に「持てない」男性が会社組織という「ホモソーシャル」からも排除されるさまがかなり詳細に記録されているのですが、まがりなりにも一人の「女」も「持てない」男は、ホモソ的には完全に落伍者でしょう。藤沢数希さんの『恋愛工学』ならば足きりに遭ってるところです。それを女性アイドルが救っている。アイドルと言いながらも、構造的にはファンは彼女らに投資することで管理し、ある程度の支配をすることが可能です。AKBの恋愛禁止なんかがその最たるものでしょうが、それが破られた暁に、峯岸みなみ坊主事件はおこったんですよね。頭をまるめるって、スポーツ部の不祥事の対処なんかを彷彿とさせる、いかにもホモソーシャルなフラッグじゃないですか?

男性アイドルの女性オーディエンスの場合、特に「婆」人口の比較的多いK-popファンダムの場合はリアルでは夫や子供がいてそれなりに社会に同化している場合が多いですから、中年童貞群に比べたら「社会から排除されている」とは見えない事が多いです。が、しかし、実はその「主婦」あるいは、「兼業主婦」という「居場所」たる家庭は実は社会においてはかなり周縁化された位置と言えるのではないか?この層は完全に愛国奥様とダブっている。そして実は『中年童貞』においても、ヘイトスピーチを繰り返すネトウヨ層が挙げられています。周縁化された人々をアイドルが救い、そのアイドルを消費構造が「守って」いる。

女性アイドルは自らすすんで周縁男性ファンによって対象化されることでホモソを救い、男性アイドルの女性ファンは自らの周縁的位置関係によって否応なくホモソの偶像化に走り、その巫女化する(それ故韓国男性アイドルを過度に消費しようとする?)といったような事が行われていて、結局ホモソを中心とした消費構造が延々と続き、男は壊れかけて居り、女が必死にその壊れかけたホモソを維持する側に回っているっていう図が見えてしまうのは私の目がおかしいんでしょうか?女性が、受動にしろ能動にしろ、巫女的役割を引き受けてしまっている。女性アイドルを「キリストを超えた」と評している皆さんは、自分達のホモソを救って貰ってるという意味でそうおっしゃるのか?なら例えば東方神起はどのように捉えるのでしょう?この名前見て、何も感じないかな?大東亜の神っていったら天皇では?

前にも書いたとおりユンホを父、ジェジュンを母とする「家族の肖像」は、「アジアの家族の肖像」では無いのか?という感覚は前からあります。そして父といえば天皇を挙げる日本人ですが、昭和でも、大正でもない「明治」が特殊な偶像性をもって今だに日本人の物語をかたどっていますよね。前田敦子がキリスト越えなら「ユンホは(明治)天皇を超えた」と言えなくは無いのでは?実際、神性という点でユンホのような父性を強調できる「男神」は今現在日本の芸能界には居ないように見受けられますし。というか、前にも言いましたように背景に「父の不在」が有ったからこそ、のこの状況ではないか?聖なる父ユンホと聖なる息子(チャンミン)のホモソーシャルは切ない物語性をガンガンに孕んで主婦層を「失ってしまった父」神話の再建に掻き立てる。息苦しいくらいに。特に愛国奥様でありかつ東方神起ファンと言う方々の自己矛盾にさいなまれる姿は非常に痛々しく映ります。しかしまたその人々が吐き出すぞっとする様な嫌韓発言、ヘイト、慰安婦や少数者への差別的発言を見ていると、この絆への献身、ホモソの補強が女性やマイノリティの分断、序列化とその永続化、ファンダムの分断、序列化と重なり合う様に絡んでいる事も見えて来る気がします。二人の東方神起が日本での人気に相反する様に韓国内で勢いを無くした事、そしてこの物語が一方では東方神起分裂に伴うJYJ(ジェジュン、ユチョン、ジュンス=女子供)の日本の芸能界からの事実上の排除と周縁化である、というのも偶然では無い気がしています。

しかし、です。このような東方神起現象を世界規模で見てみる時、実はそういった絆にベタに「普遍的な関係性」を模索するファンも少なからず居るということに気づきます。というより性を差異化と逆方向に牽引しようとするタイプの変化が見えるというか?(可能かどうかは別として、ですが。)欧米のK-Popファンはアジアに比べて年齢層が低く、また腐女子歴も短い。マイノリティも多く、現実のLGBT方面と親和性が高く、こういったファン層はカップル信仰にしてもナマモノ取り扱いにしてもあまりお約束に縛られる感じは有りません。この様なファンのあり方に逆に影響を受けた日本のファンも少なくないかもしれませんね。フジョシ的なコンテンツは往々にして性的でもありますから人権に抵触するような行動、言動は注意が必要で、勿論避けるべきでしょう。ただ日本の腐女子の歴史が長いことで海外ファンにセンパイ呼ばわりされるのとは裏腹に人権リテラシーが実は弱いというのは有ります。著作権や企業権益リテラシーは高いのですがね。日本人やアジア人の高齢ファンが良くやりがちな「OOはゲイじゃない」「XXはホモじゃないから」と騒ぐことなどがそれにあたるでしょう。そういったことが少数派セクシュアリティーを異端視して差別することに繋がるというのは欧米人のファンは若年層でも生活上の知識で知っているため、そのような形で騒ぎ立てることはよほど年齢が低くない限りはあまり見かけない。ファンの振る舞いにもコンテンツにもグローバルスタンダードが必要って事になって来るんじゃないでしょうか?

そんなこんなの現象をお約束違い、腐はゲイとは違うとして嘆く古参腐女子も見かけますけれど、私は腐女子の意識にもジェンダー視点は広く持ち込まれるべき時期に来ていると思います。ホモソへの親和性は消費構造に乗るためには有効だったかもしれないのですが、お約束や恋愛工学を追求すればする程辛くならないですか?まあそういったものは恋愛やらセックスといったものの身も蓋もない構造を学ぶ為には有効かと思うんですけども。そもそも救うべきはホモソなのか?ホモソーシャルはそういったものへの欲望装置でも有りますから、救いたい感情があっても不思議ではないですが、しかし逆に欲望を強制される事ほど辛いこともない気がするんですよね?

それらを考える為にもこういった変化もとりあえずは受け入れる、ゆっくりと考えて行くべきもの、と感じております。