夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

可視化するジェンダー化。ベッキーと東アジア的「アイドル/タレント」について考えてみました。

読者様こんにちは。

読者でないあなた様もこんにちは。(笑)

 

はてなに引っ越してもうすぐ一年経ちます。そのきっかけなどをつらつらと振り返ってました。

 

ブログとは手紙なのだ、という目線のことをどこかでみかけ、これだと思った次第でして。わたしにとっては、このブログは見知らぬ「あなた様」に対する手紙に違いない。ただし、読み手が主体の手紙ですが。ブログは日記だとはかねてから語源的にも言われているのですが、自分だけに向けて書くならネットで公開する必要も無いことです。(日記と銘打てるような日数書いてない事実も。苦笑)ただ、なにがなんでも拍手やコメントを得たいか?と言われれば、そのような時期も確かにいくらかの期間はあったのですが、ネット上の不特定多数の「承認」を追いかけ続ける「ため」に書いているのかと自問すれば「そうでもない」というしかない。とすれば、やはり備忘録を兼ねた、たぶん数少ないであろう私の文を気に入っていただいている「あなた様」(あるいは嫌っているが気になってしかたない)への、私からの手紙というのが合っているような気がします。

ネットが公共の場だというのは今更言うまでもない、にべもない事実ですが、毎回「自分は対面して言えないようなことはうんぬん。。」とか題目を唱えつつ書くのも性に合わず。むしろ対面したら言えないような気恥ずかしいことでも手紙なら書けるってそういうこと無いですか?

こういうのは、書き言葉話し言葉が一体化してしまった現在のSNSなどでの類型化した「対面で言えないことは書いてはいけない言論マナー論議」等からはすっぽり抜け落ちてしまうのかな?そういう部分はもう別に論議されなくてよくて、匿名性の悪弊だけ言ってればいいっていうのもシンプルすぎる気がしますけど。もし、「増田」が無かったら「保育園落ちた」という、あの面白いブログも無かったんじゃない?あれはやっぱり面白かったよ。誰がなんて言っても( ´∀` ) ねえ、世の中社畜と煩いけど、家畜も居るんですよ、意思とは裏腹に。「ああ、社畜になってみたい」みたいな?

 

対面してようがしてまいが、言葉で誰かしらを傷つける可能性は実は言葉を発する人物の人格をとわず、どこにでも転がってます。言葉とはそのようなもの(私がゲスであるのももちろん認めますが。)肝要なのはネットのその先にいるのは大概はロボットではなくて人間だって事ではないですか?今だってPCに向かってはいるけどPCに話しかけてるわけではないのでして(Tayとか、Siriとか除くww)。ネット(つまりヴァーチャル)が大事か、現実の人間関係が大事かという世界を二つに切り分けるような議論自体がもはや意味を失っているなあって思うんですよね。だって家族や旧来の友人といった現実の人間関係も今やネット上でも展開しているわけですから。

 

これからはネットの匿名性ではなく透明性がその特徴をもっとクリアに表してくるのではないかと思っています。ってのは、子供たちを観察してて感じたのですが、彼ら彼女らのネットの使い方は、なんだかんだで匿名前提はない、というか匿名とか実名をうんぬんしていない。。。むしろ、出版やTVといったオールドメディアではいまだに保たれている「匿名性」がネットの初期にマインドとして持ち込まれていたのが(例えばペンネーム⇒ハンドルネームとか)今はもともとのネットの特徴である透明性のほうの特徴があらわになってきているんじゃないかなと思います。もちろん、それに伴ってプライバシーが露わになるし、その危険性という観点も必要です。「匿名性は絶対悪ではない。」というのは周知でしょうが、むしろ、気になってるのは「オーバーシェアリング」の態様で、ソーシャルメディアを使うこと。承認欲求は誰しもあると思いますが、「私が」「俺が」と繰り返される画面を眺めているといたたまれない気持ちになります。しかも、その多くがそれこそ匿名です。

 

と、いうことで‘。。。話はちょっと逸れますが、ベッキーさんの問題です。

 

今回のいわゆる「不倫」そのものではなくて、ベッキーという存在、それからほかの「タレント」と呼ばれうるすべての人々について考えたことなのですが。。。

 

英紙のGuardianなどは今回のいわゆるベッキーたたきを「セクシズム」と表現していて、また多くの方がそれを「女性差別」と解釈していたようです。*1 

間違いとは言えませんが、単に「女性差別」と捉えてしまうとほかに色々噴出している問題*2との関連付けが希薄になるな、と思いました。なかには、「主婦層」がベッキーたたきをしているのに、女性差別っていうのは違うだろ的な主張をしてる人もいましたし。そういう人は、「いわゆる主婦層」がいまや「女性差別」の中心勢力かもしれないことに気付いていない?

性別が女、の人もたくさん「女性差別」します。差別は社会のなかに規範や習慣として作り上げられているので、「それが差別なのかどうか」を常に吟味していないと老若男女を問わず、知らずにうっかり誰でもが参加してしまう可能性がありますし。そこに個人的な「意図」があるなしにかかわらず「差別」は存在しちゃうっつーか。

ということで、もう一度ベッキーさんを見てみますと、もう一人の「不倫」当事者、川谷さんと彼女との間にある「差」に気付きます。川谷さんにもかなりのバッシングがありますがそれによって彼の職業たる「音楽」が彼から奪われることは無い。

しかし、ベッキーさんの場合は職業としての位置が簡単に脅かされているように見えます。ここを性別だけによって見ようとするなら、まさに「女性差別」でしょう。でもたぶんそれ以前に、彼と彼女の職業の「違い」があるでしょう。彼はミュージシャン。では彼女は???「タレント」?タレントというと英語で「才能」の意味ですが、あかるくかわいく、元気よく礼儀正しいハーフ(清く正しく美しいと言い換えても可)、それ以外の「才能」はどうでしょう。色々こまごまと器用にできることは多そうだし、司会も上手です。彼女のことはいわゆる「不倫」を知った今でも好きですが、「タレント」という以外にいわゆる芸能としての職業に結び付くような歌や踊りや演技といった部分は見つけられない。確かにこのカテゴリには女性が圧倒的に多いことも確かですが、一方同じような種類としてここにたくさんの「アイドル」が含まれていることを銘記します。一応、歌や踊りという「才能」部分が申訳というか、付帯条項程度というか付加価値としては有るんですが、メインの価値は「清く正しく美しい」ことに尽きるでしょう。特に日本型のアイドルは歌も踊りも「別に」うまくなくても職業アイドルで居られます。しかもそこは男女関係ない。つまり。彼ら彼女らは能力でなく「属性」そのものが職業なわけです。

 

だからこそというのか、タレント、アイドルにとって「恋愛」特に不倫と呼ばれる類は職業を脅かす命取りになるということ。*3 確かにこれは「セクシズム」であるでしょう。ただし、物理的な性別によらないセクシズムといえるのではないでしょうか。もっと言えば、これはアイドルやタレントが社会という構造のなかで「女性化」(ジェンダー化、周縁化)していることも意味している。つまり、タレント、アイドルは「女」そのものが「職業」として機能しているということですね。主婦層に叩かれやすいというのも「そこ」なんじゃないですか?

 

日本や東アジアのアイドルやタレントが社会の不特定多数の価値観、モラルをはみ出さないように行動することを求められているのは周知の事実です。しかし「人間」、そうはいかないことも多々あります。が、川谷さんが批判やバッシングはあるものの「音楽」という職業分野で立っていることが可能なのは、過ちをおかすこともある「人間」としての最低限度の尊厳をミュージシャンであることによって担保されている、という風に見えます。翻って、ベッキーさんにはその担保がない。

でもこれがある意味で「特異」であることが英紙に指摘されてあらためて認知される。社会構造の中に隠れていて習慣化するゆえに見えにくいgender化がどのように機能しているのかが可視化したのが今回の件ではないでしょうか?なにもかにもをぶっ壊せ、という気はむろんありませんが、こういったあらかじめ差別を含んだ規範や習慣を見なおすことは重要なんじゃないかと思います。*4

 

*1:

Downfall of Japanese TV’s girl next door highlights wider industry sexism | World news | The Guardian

*2:SMAPとか、JYJ法だとか、おねえタレントのオブジェクト化、秋元康作詞問題、AV女優は強制か否か問題などなど。

*3:先日炎上した秋元康氏の作詞『アインシュタインよりディアナ・アグロン』が語るように、”女の子は恋が仕事”。そこではつまり女という属性が職業化してるわけですね。

*4:「不倫」は「倫ならぬ」と書きますが、そもそも一夫一婦制のハイパー異性恋愛結婚主義と装置のほうが、経年劣化の一途をたどっているんじゃないかとみることもできますしね。。。。せめて不倫とかそんな呼び方やめてもいいんじゃない?とも思うんです。