夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

愛する理由?―シムとシア

Twitterへの浮上回数が少し多くなったら途端に目に見えるものが多くなったんですね。なんか今、また流れとして昔日の件を蒸し返す、ということのようで。

再検証はいいですよ?*1

でもそれが魔女狩りだけの目的とか、印籠見せるとか、攻撃するためだけの話なら、結局人はタコツボに戻って蓋閉じちゃって見たくないものは見たくない、永遠に見ない、ハイ終了ということになるんではないかと思います。*2

 それで、敢えて、なんですが、、、、

シムさんの例のイスマンコールと、シアさんの慰安婦バッジ。この二つについて考えてみました。何が、そしてなぜそんなに「ダメ」なのか、自分には合点がいかないからです。

 

シムさんのイスマンコールについては「萎える。ここは日本なのに。」

シアさんバッジについては「反日行為。日本に来るな」

 

非常に簡単にまとめちゃえば、反日はダメということですか?

私からするとイスマン先生、やっぱりなんだかんだ才能のあるプロデューサーです。日本を最初のターゲットに据え、5トンを日韓ハイブリッド化した張本人。そのおかげで、日本のファンはトンに会えて、彼らの成長にまみえることができたわけですよね。シムさんのあの流ちょうな日本語だって彼がそうと決断しなかったらなかったわけです。

シアさんの慰安婦バッジは高校生のボランティア団体のものだとか。慰安婦問題は韓国の反日プロパガンダだとよく言われてますが、そればかりクローズアップされて、戦時のジェンダー・セクシュアリティの問題として韓国、日本また世界中のフェミニストが真剣に取り組んでいる問題だということが忘れ去られてないですかね?彼女たちは国家という枠組みを超えて、また超える努力をしながら運動しています。

イスマンコールも、慰安婦バッジも「反日」でいいのでしょうか?そもそもその表現方法はともかく「反日」という事そのものが倫理的に何か悪い事なのか?

 

何が言いたいのかというと、実は根底にある感情として多くのファンはイスマン先生よりも慰安婦のおばあさんよりも、アイドルに私(日本)を気にかけて欲しいのではないか?ということです。日本を私を承認して欲しい。何か愛国クラスタとめちゃめちゃかぶってますが、この部分は当のアイドルが韓国人だからこそ顕在化する部分ですよね。日本人アイドルが対象であれば内在化してても表に浮上するきっかけがない。普段愛国クラスタに自分が居るとは思わない人でも、気づけば韓国アイドルに対して相当のケアを迫っている。私もやはり自分のしている事は振り返らざるを得ない。

 

反日行動をしないこと、日本語でしゃべること、日本語で歌ってくれること。日本の芸能界のしきたり通りに動くこと。これらがファンから見た彼らの「愛」であり、「ケア」なんだと思います。だからこれらを韓国アイドルに要求する。日本で活動したいのなら、ジャパンマネーがほしければ。。。当然。と。

でも実はそういった構造自体、日本語も含めた日本の市場優位性に立脚していて、とてもヘゲモニー的であるということをファンは忘れてはいけないのじゃないかなと。。。

「好き」に理由を述べ立てる事はいらないと思っています。ってか、ちゃんとした理由がないと好きでいてはいけないのか?*3逆に理由を持ち出す場合は、そこにあてはまらない何かを嫌うため、排除するためではないか?ということです。愛と差別は一体ですし、お金は有限なので、差別すればするほど、選ばれた限定部分にexclusive に課金は可能になります。

そんなことを考えながら、シムさんの言動*4*5をもう一度かみしめると、やっぱり面白いなと思いましたよ。彼はファンを試しているのかな?ということです。

 

「それでもシムを愛していますか?」by最強エースw*6

 

 

*1:625を語るにもそれがねつ造とかは、言い方に気をつけませんと、5人時代上書き派と同様の「歴史修正」になっちゃうと思う。会合はあったこと。でも会合の目的や話された内容の真偽については解釈が分かれている事実が有ります。そしてバッシングのネタに内容が使われたことはネットで確認出来る事でしょう。でも、もともとこのような「血の闘争」はトンペンのファンダム有史以来有った事で、この時に突如として起きたわけではない。でもこれが度を越えたバッシングに繋がったことを考えたら、この会合はあるべきでは無かった。まあこの会合を抜き出して批判した側にもそれ相応のバイアスは有り、そのバイアスからまた手酷いバッシングが生まれた事も有りますけれどね。カシオペア内部の分裂ももちろんそのバイアス、つまり誰の個人ファンかによって起こっているので、結局今日の個人ペン化に繋がってますよね。何度もおんなじこと書くけど。。。

*2:自分もそう言う回避性傾向にあるもので、なおさらそう思います。

*3:しかし結局アイドルを求めるのには求めさせられているという事情は存在すると思います。「神」の存在を伝える「媒体」がアイドルでそれに対するニーズがある。このニーズがどこから産まれるのか?ということです。二村ヒトシさんであれば「心の穴」であると言うことでしょう。しかし、自らこの穴を掘らされているのが、我々ではないでしょうか?私はこれをInduced solitudeと呼んでいますが。。。

*4:欲しいものはお金、離婚は悪いことではないEtc.ありますよね。最近何を思ってるのかw

*5:一つ一つ解釈を試みるよりも、これらの発言が方向としてどちら向きのものなのか考えると面白いです。先日発表のあったイ・スマン先生のセレブリティマーケティングの話ですが、私としてはクレビュとそんなに変わらない話だと思いました。誰が「主体」を担うのか、とスケールが違っているだけで。いや、それこそジェジュンさん!セレブマーケティングは非常に上手です。Jholicの商品とかかっわいいもの!あと象さんワッペンの効果見ました???さらにいちごまで売れちゃうんだからねええ!

*6:最近うちの娘「登場人物がどんどん死ぬアニメ」にたいして、自分の愛(執着)を断ち切られるようで感情移入できないとボヤくぼやく。。。

ユンジェの力学-Power of Resurrection

matome.naver.jp

先日、こんな<ありえない>ことが起こってしまいトンペン界隈は悲喜こもごも、でした。うむ。

 なんて、冷静みたいですが、本当はマジ動転したんですよね、私も。

だって、あの伝説の切ない10月の別れを経ての、2009年12月の紅白からーーーそうそう、特に当日10月2日の再会当日は5人での最後のコンサートの日だったらしい(なんせ、2、3に分かれてから興味を持った口で、リアルタイムの5人の記憶はかなり限定的です。そういうこと言うと分裂しなかったら興味持たなかったんでしょ?などと聞かれます。そうかもしれません。でもさ、いくら動機が不純?だからって言っても「彼ら」じゃなかったらその後長いことは追わなかった気はします。ま、相も変らぬ茶の間ペンではございます。。。)ーーーー実に今の今まで、5人時代の東方神起の公式かつ王道カップルと呼ばれ、世界中に「Shipper(信者)」を持つこのカップルが公の場で会った事は無かったんですもの。。。

その長いことったら、、、2009年の訴訟から6年以上。2011年の二人の再始動から4年半、韓国での裁判和解からでももう3年近い。それが、今年同い年のジェジュンとユンホが兵役義務のため陸軍に入隊し、その軍のイベントで顔を合わせた、というわけです。とりあえず、こんな長い間、固~く閉じていた天の岩戸。が、いきなり開いちゃって「あっは♡」とか「なは~~は~」なんて同時に聞こえてきちゃった日には*1いかに心臓に毛の生えてるBBAといえど度肝を抜かれるわけです。またその地名ったらね?鶏龍台?天の岩戸で鶏鳴かせた神話知っててての狼藉なんですか??

とにかくあり得ないもの、みえちゃいけない、もしかすると一部ではもはやタブー視*2までされてたブツなんですから! (この二人関連のグッズがライブ会場で没収されたりしたこともありましたっけ。。。まさしく封印された「地雷」。腐女子をファンダムに大量に抱え込むとこういうことになっちゃうという見本みたいでは有ります。

こういった経緯もあり、ほぼ不可知論者になりかけてたんじゃないですかね。ユンジェシッパー達も。とりあえず10月2日の序盤にはちょっと引き気味に構えてるようにみえたんです。むしろ。だってLove in the iceな時間長かったもんね、「いやいや、あるわけないから、期待しないでおこ。」みたいなね?ですが、午前中ユンジェがステージで公式的に二人同一のカメラフレームに収まったにとどまらず、午後にはオフショットで家族と挨拶や談笑、本人たちどうしも会話を交わし、腕をぽんぽん、Broハグをするなど次々に接触情報、動画も続々上がっていくにつれ、あとはもう祭り(笑)。シッパータグ#YunjaeIsBackが各国のトレンドに出現し、それこそ「あり得ない」強さを見せつけたわけです。

まあ、死んだと思ってたおじいちゃんが火葬場で棺桶踏み抜いて息吹き返したとか、あるじゃないですか?だからRessurectionってタイトルにしたんですが。いえ、他でもないユンジェペンの事ですけどね、半分は(笑)。だってさ、「神は求められるから存在する」ってことを前提とすると(ブログ内で書いたことあったっけな?)ユンジェペンの「求めている」ことは、事務所を訴えて離脱した3人とその事務所に残った二人のそれぞれの側についたファン達と彼女たちの主張する「ファンの気持ち」イシューを考えたら、公ではできなかった筈です。だから、ユンジェペンたちには「神」は目に見えない形で存在するしかなかった。私はめっちゃ不信心だし、不可知っていうより無神論に近い感覚を宗教に対しては持っていますが、今回、ユンジェシッパーを見ていてようやく腑に落ちたんですね。例えばクリスチャンのひとがどうして目に見えない「神」を信じていられるのか。感覚としてストンと理解できた、、、

まさにユンジェペンにとっては神が「降臨」してしまった瞬間ーーー。

そのときふたりは軍人だったし、一般人だった。「職業アイドル」はそこにいなかった、というわけです。それが今回の「ケリョンデの奇跡」なんじゃないかな、と思いました。

ジェジュンとユンホが喫煙所(笑)で会ってハグしたり会話したときにすぐ近くで見ていたという、メキシコ人院生の英語で書かれたレポを読んだのですが、彼ら二人は少なくともその場にいた数名のカメラを持ったファンたちに対してまったく隠すそぶりは無かったようです。むしろマネージャーはファンに対して追い払う素振りだったといいます。その素振りから、事の重大さを察知したとも…。まあ、そもそも本部テントの中に二人とも居たのは間違いないし、イベント前から合宿して本番に備えていたらしいし、たくさんの共通の同僚兵士たちとの「証拠写真」も上がりましたし、目撃者の感想は淡々としたもので、「普通に良好な間柄」のように見えた、ということです。

結局「守る」ことって何なのかなあと思いました。軍隊というもっとも「攻め」とか「守り」に近いと思われる場所で、ある方向性のファンである女性たちの抱いているある種の「イメージ」はマネージャーが守ろうとしたにも関わらず、壊れたかもしれない。とんでもない「地雷」によって。で、ここは誰を責めるべきなのでしょうか?もちろん賢いファンは棲み分けも、スルーもブロックもお手の物だと思いますが。。。それでもユンジェペンやお花畑を「どうして無くならないのか?」「無くなればいいのに」と訝っている方もおられると思います。

でもどうしてか「ユンジェ」はしぶとい。はっきり言っちゃうと私はなくならない、と思うんですね。ひとつには彼らの包摂性の高さ、というのを私は感じています。二人きりの世界へのピンポイントの絞り込みだけではなく、その上に加算していけるスペースも持ったカップル。2人の人好きのする、単体としても愛されるイメージの存在ももちろん、カップル妄想plus1では非常に高い人気を持つ「(まさに最強の)ユンジェミン」スリーサム*3をも備えていますし、「ユンジェ」+「ユスミン」*4の家族妄想も、ジェジュンのジェンダーレスな母イメージから根強い人気がありますし。排除ではなく、ジェンダー流動性や性や家族のあり方の多様性、女性性、母性さえもかれらの物語に包摂していける強さを持っているのがYunjaeだと思うんですね。そしてこれは東方神起の分裂からファンダムが分極化、アパルトヘイト化、あるいはたこつぼ化をあまりに進めすぎた故、そこから取りこぼされて、どこへも帰属できないでしまうファンも多いということも同時に示しているかもしれません。

分裂後もファンダムは戦闘状態をいまだに引きずり、更にはそれぞれの内輪でもめて、今は個人オタ化が深刻に進み、もはや腐女子ペン(2人サイド)と絆ペン(3人サイド)の存在をもってしても、かなり「箱推し」の難しさが目立ってきている状態だと思われます。*5

こんなタイトルをつけておきながら、彼らの上に働くパワーの事はいまのいままであまり書いてきませんでした。実は彼ら自身の関係性もパワーで語ることは好きではなかった事があります。しかし、いま彼らは芸能界という<パワー>の磁場から一歩出てしまっています。彼ら自身の姿も、受けとか攻めとかのお約束を超えて、もっと変化のあるファンタジーを描けるようになってきている。消費者としてのファンのコントロール(守り)のないところに居る彼ら。。。軍隊というのは日本のファンにとってみたら全くの非日常だと思うのですが、実際は彼らにとっての日常でも有りますし、パワーバランスとしても軍事力>芸能界というのは勿論有るでしょう。  

 そんな彼らが逆にユンジェシッパーの"Faith”を「守って(Keep)」しまったというのは偶然にしろとても面白い事だと思います。ユンジェペン以外にも、でもよろこんだ方はたくさんいらして、とくに腕をぽんぽんの場面の暖かさにじわっと来たなんていうブログを見かけたときはうれしかったですね。

****ガチクリスチャンの人がよくGod is realってステッカーつけた車に乗ってますが、アメリカでは。Yunjae is realってステッカー作って貼っちゃおうかな(^ ^)

*1:ここ「はてな」なんで、一応注つけますと、ジェジュンとユンホの特徴的笑い声ですね、これ。5人ともですが、本当にキャラが立ってて、笑い声一つで、ファンには誰なのか探知可能なのがすてき。うん、自画自賛w

*2:私がユンジェペンの歴史のなかで最も悲しかったなと思っているのが、<腐女子のお作法>問題でして、又あとで書く機会があるかはわかりませんが、一部のペンによる「エロ垂れ流しファンアート」問題に端を発した騒動によって、これまた一部ユンジェペンが自警をはじめ、結果呵責を感じたペンが大量に自重、自粛という形でMute化されてしまった事ですね。このことは、私が<腐女子>という存在について「腐っている」と自嘲しながら「一般」と隔絶するスタイルを取り続ける事は、逆にいつまでも女が「腐る」原因、つまり、男性型社会/コロニアルな両極的社会を温存し続けることになるのでは?と考え始めたきっかけでも有ります。

*3:ユノ、ジェジュン、チャンミンのトライアングル妄想

*4:ユチョン、ジュンス、チャンミン

*5:箱推しの困難な状況つまり個オタ化は、でもAKB48などでも似たようなことが起こってるみたいですよね。面白いことに、しばらくブログをつけてきていますが、トンペンとAKBファンはいろいろな事象が並列で進むことが多いです。これファンダムの性質が似ているからでしょうか。。。?

とりあえず偶像性とはなんだろう?ということから。。。

立て続けにアイドルについての記事を読んだのでそれらについての自分の考えを書いておこうと思います。

読んだ記事は、その訴えの強度にはだいぶ違いがあるけれど、示している方向としては似ているとまずは思いました。以下3記事参照させていただきます。

ka3104.hatenablog.com azanaerunawano5to4.hatenablog.com fuhouse.hatenablog.com

時系列で配置させていただきました。

男性アイドル、女性アイドル(地下)、Kドル(一部日本のアイドル含む)のファンあるいはアイドルに興味や知識を持ってらっしゃる方たちによる、アイドルというお仕事についての考えが述べられてます。

この中で自分にとって重要だった点は以下のようなことです。

  • 女性と思しきお二人はある程度の分量、女性アイドルについても言及されている

  • 真ん中の男性が書かれたと思しき記事は女性アイドルの「プロデュース」サイドも扱っている

  • 三つともアイドルは「職業」あるいは「ビジネス」であることを大前提に記事は書かれている

  • 三つ目の記事はアイドルの「人権」に言及がある

  • 三つともアイドルの舞台から離れた位置での行動(しかしながらビジネスに影響するものと位置付けている)に対する「倫理性」について言及している

私自身は、アイドルは職業である、という位置づけはもちろん構造的にあると思っております。ですが、職業だとして、「どんな」職業なのか?も念頭におきたいと思っています。花魁や慰安婦、ホスト、ホステス、ほかのセックスワークなどと同時に感情労働を担う職業とカテゴライズすることもできそうです。感情労働という観点では俳優、音楽、特にポップ、ロック系アーティストも近いところに位置している気がします。ただ、舞台やフィルムの中と日常の間の線引きはアイドルの方ではより曖昧な気がします。

そのうえで、アイドルに特徴的なのは常に「制作者」(本人含む)が居り(古くは花魁の女衒、現代なら水商売、セックスワークにも管理者の存在がありますね。)消費される対象としてイメージが「商品化」され、ほぼ常時誰かの管理下に有るということ。実際アイドルは憧れの存在そのもの、というより「憧れ」を人々がよりたやすく手にする事ができるように簡便化した「偶像」というのが語源でしょう。でもその卑下した語源の感じには今やそんなこだわらなくてもよくなっていると思うのですが、それでも「像」という部分は残るでしょうね。で、その像のところにファンが何を求めるのか?っていうところが重要なんだと思います。(日本的文脈にはもとから「神」なんていないから「キリスト越え」とか軽く言えちゃうのかもしれませんし、一応社会には溶け込んでるけどそのSignificanceは認知されてないから、かもしれません。その辺は宗教学をきちんとやってない自分にはジャッジできません。)

ただもっぱらそういった「像」において彼ら、彼女らが性的な(恋愛を含む=萌え)消費対象*1となっていることは、演じる彼ら自身が悪いとか、そうみなすファンの目線が悪いとかそういったものではないと思います。しいて言うならジェンダー化された資本主義消費構造の問題ではあるでしょう。でも、面白いのはアイドルとファンとの関係性の中に「人格」や「倫理」がかなりの比重で持ち込まれているのが、日本や韓国型アイドルの特徴かなあと思うんです。

アイドルといったら、アメリカではディズニーアイドル位が関の山ですが、ティーンからほぼ20代前半までで命を終えるこれらのアメリカンアイドル達も、もちろんその期間は「品行方正」で全方位から「好感度」を持たれることを期待される。ですが、たいていは大人になる段階でそういった「幻想」はお墓に入ることになります。

でも、日本型だとアイドルには半永久的にそれが付きまとうんですね。「お仕事」として。。。

今回の嵐、大野さんの事件で大変複雑な心境の女性ファンが多い、ということはすぐに察しがつくのですが、人格的ファンタジーを損なうことによる「萌え」の崩壊って、かなりのものなんだなと驚いています。

確かに反社会的な行動を取ったら、芸能界以前に社会的に罰を受けてしまいますが、今回の事件や、アイドル恋愛禁止などの現象をみるにつけ、日本や韓国の場合はビジネス上に結ばれた「像」から外れることにより「倫理観」を疑われ、それによってビジネスを失う、という事態が往々にして起こるのだということがうかがえます。私の印象としてはこういった社会構造自体が少し「モラハラ」的な性格を持っているのではないかと思って眺めている次第です。っていうのも持ち込まれる「倫理」があくまでもビジネスのラインで語られるということに起因してるかな?権利ではなく責任、義務。ファン(の幻想)に対する義務や責任という形での。。。結局私生活も「仕事」のうちにカウントされるのが「アイドル」なのでしょうかね?でも、そうすることが果たして倫理的であるのかないのか?もちろんハチャメチャな私生活を送るアイドル(例えばアメリカならマイりーサイラスさんだとか、ジャスティンビーバーさん)にへきえきするのはオーディエンスとして普通なんですが、でも人の領域侵さない限りはそれでも彼らの自由ではありますね。「仕事」のところで水戸黄門の印籠が出て、引導渡されちゃうのはやっぱかなり東アジア的、日本的なんじゃないかなとは思う次第です。

  • 余談ですが、考えてみたら、東方神起、JYJのファン戦争も、彼らの倫理観を巡って大々的に争われたんでした。。「東方神起、おまえもか?」なんてな。。。涙。過去形じゃなくてファンには無限ループ状態なのがもっと悲しいか。。。

  • しかしながらもっと余談ですが、先日来ツイッター界を騒がせている「ケリョンデの奇跡」*2がこの3つの記事を読んでいる最中に起こり、うっかり無神論者のはずの私すらそこに「神」を見てしまうという「奇跡」。それは次の記事で書こうとおもいますが、「アイドル」を超える事象だったんですね、私には。。。。

*1:性的というのは性行為のファンタジーだけでもましてやそれがヘテロセクシュアルに限定されるわけでもなく、身体パーツイメージの消費から腐妄想も含まれるということを、コンセンサスとして設けておきたいと思います。性というものがパワーと関連して否応なしに差別的な構造を生じさせるカテゴリーであることも念頭に置いておきたい。

*2:分裂前の東方神起の看板カップルだったユンホとジェジュンが6年間公式に会うことはファン同士の闘争状態もあって叶わず、しかしてファンが芸能人の墓場だと認知していた兵役生活の間に奇跡的に再会、「復活」を遂げたもの。ケリョンデは鶏龍台。韓国軍のフェスティバルが行われ、10月2日公式再会が果たされました。

アイドルの信者が「管理者」でもあること: Super Junior 馬様のスキャンダルから。

先日スマホを開けたら、馬様ことシウォンが、またしてもスキャンダルにまみれていました(;^ω^)

今回はアメリカで、同性婚を認めなかった州高裁の判決に対し連邦最高裁が違憲と判断したことに対し、右派クリスチャンの有名牧師さんが発したツイッターでの同性婚への反対意見をリツイートしちゃったもの。

彼の{お育ちがガッチガチ右派プロテスタント家庭}バックグラウンドならしょうがないだろうっつうのが正直私の感想だったんですが、ネット民はまあ派手に反応してましたね。このニュースは複数媒体で取り上げられたうえ、最終的に馬様が謝罪コメントを出したんですが。その時のK-pop(特に欧米系)ファンたちの反応が非常に先鋭的でした。

SJのパフォーマンス、つべでも見たことのある方ならよく理解できると思いますが、男同士でキスはするわ(しかもヒチョルさんなんて口にですよw結構ディープw)、シャツ脱いでおさわり、液体掛け合い、ハグ、手つなぎ、お姫抱っこEtcというファンサービスがてんこ盛り。もちろんその筋では有名なSMエンタさんですから男同士のカップル押しなども強力にあり、腐女子ファンのファンタジー、ゲイ妄想を掻き立てるわけですね。セクシュアリティの流動化が言われる昨今の若者事情、ファンダムにLGBTがすごく多いという状況もあいまって、腐女子文化も漫画流入とともに定着し始めてる欧米市場でK-Popを語る際のマストアイテムと言えます。

シウォンさん、誰よりもサービス精神旺盛に(てか天然なの?がちなの?とみなさんいぶかしむくらい、それは自然に)、それらをこなしてらっしゃいます。だからかねえ、今回の発言を、

「普段男同士であんなに官能的に触りあってるのに何なの?」

と揶揄する方も居れば(かなり多数がこっちでしたが)、

「結婚には反対でも、性的少数者自体を否定しているわけではないじゃないか?」との擁護派も居たり、

「スジュはファンではなかったが、よくぞ真実を言ってくれた」というような保守的な意見もありました。

どんな意見が飛び交ったかは以下の記事を参照なさってみてくださいね。

www.soompi.com

しかしながら、シウォンさん謝罪前にはきっちり反同性婚の立場の確認もしてまして、ま、そんなこんなを眺めながら、なんで世俗国家と呼ばれ、古くは衆道の伝統を持つ日本が同性婚を認めようとしないばかりか結婚は男女間だけのものであるとか、そうしないと家族が壊れるとかやってんだろうか、というところを考えてしまいました。ガッチガチ右派クリスチャンとほぼ同じなんだよねーーー、スタンスが。(日本の同性婚についてはいずれ日を改めて書こうと思います)

www.sbs.com.au

彼とは逆に、いち早くLGBT支持を表明したのが同じSMエンタのジョンヒョンさんでしたが、シウォンさんは「ビジネス的にそれで成功するとしても、自分の考えは曲げられない」と、頑として否定派の表明してたんすよね。私は個人的にはもちろん支持派ですし、Atheistだし、おいおいどっちがビジネス?って思ったのも事実。でも、シウォンさんを「否定」する気はないの。むしろ彼の内面の葛藤とかを想像するにつけ萌える、という変態でもありまして。謝罪したときにはめっちゃ萌えたわwおちゃみとの同伴入隊にも萌え萌えですけどね。

さてと、ここからが問題。。。

この騒動が面白かったので、もとツイのJohn Piper牧師の主催する団体のホームページDesiring Godにまで足を延ばしてみたんですが、そこで見つけたのが神学者Richard Lints博士とPiper牧師のダイアローグでした。

www.desiringgod.org

「なぜコントロールフリークはアイドルに傾倒しがちなのか?」

というびっくりのタイトルですが、一応ここで言われている「アイドル」は宗教上の「偶像」という意味合いが強いので、歌ったり踊ったりする可愛子ちゃんという「東アジア芸能界の産物」とはちょこっと薄い色の線をひいて置く必要はあります。(アメリカでは、その手の芸能人はポップスターと呼ばれますし、アイドルという呼称を受けることはあんまりない。アイドルは偶像崇拝というプロテスタントの教えのタブーにあたりますからして。)でも、読んでいくとね、ずばっと切り込まれるところがあるんですよ。

”造られたもの{アイドル}は、造るもの{神}に比べコントロールがたやすいというのはあきらかな幻想である” が、 ”コントロール可能なものに対して抱く深い満足感にはえてして非常に強いものがある” って。。。。

自分がコントロールできるものに対して人は中毒する。それは私も知っていました。先月に書いた記事の中でも「アイドルファンは管理者でもある」と書きましたので、暇な方はもう一回読んでみてください(笑)。

ravensk.hatenablog.com

それが実在宗教の文脈でも言われてたのには結構ガツンと来ましたねえ。まあこのダイアログでは、「自分探し」として「偶像性」を用いてしまうことを多分指摘しているのですが。そして、テクノロジー(スマホだのパソコンだの)がその「管理する力」をたやすく人々に与えてしまうのだという素晴らしい洞察もある。SNSを利用した「自分自身のアイドル化」は確かにあります。誰もがスマホさえ開けばたやすく「世界」と繋がれる。そしてそこにはすべてのチョイスがある、というかその様に感知される。この操作性による全能感が自分という存在を全能の神みたいに創り上げる、そういう偶像を個人の意識の中に出現させるって事。

これを東アジアの「アイドル」文脈で解読してみますと。

我々が「アイドル」に抱く「こうあってほしい」という希望はそれがたやすくかなうほど中毒性が高くなる。顔もダンスも歌もうまいのはデフォルトで、さらに「人格」が素晴らしいというすべてが揃う「全き存在」「現人神アイドル」の「東方神起」が中毒の頂点に君臨しているのはそういうわけなのかと思います。そして、韓国アイドルに対して、いい大人の日本女性が特に中毒するのは、彼らとファンとの間の差別的構造に由来するものでもあると思うんですね。金銭面でも、歴史的な両国の関係からも、明らかに非対称な構造が存在します。しかもそれは、日本の過去や価値観に密接につながっている。とにかく、日本のファンには韓国アイドルは相対的に御しやすいのでしょう。これははっきりとネオコロニアルなビジネス構造といっていいと思ってます。

「恋愛は100%隠せ」 「この話題にはこう対応してほしい」 「事業はしないで音楽に専念してほしい」 「メンバー同士でいつまでも仲良くしていてほしい」 「家族を愛する道徳的な人であってほしい」 「常に努力して進化を見せてほしい」

等など。。。まあいろんな希望がありますよね。アイドルは理想の姿でしょうから、やっぱり人格だって良くあって欲しい。わがままなファンの希望をかなえるべく、アイドル達は努力する。しかし、彼らも人間ですので、いろいろと無理なこともあるでしょう。ファンには別に自分がアイドルと恋愛したいという欲望とかでもなく(それもある人にはあるんでしょうが)、でも上記のような自分の考える善、理想への同化を激しく求める傾向が見えるし、それがかなうとそのことをファンは「アイドルからの愛」として受容しがちなんじゃないのかということですね。かなわないとなると、つまりそれは一部のファンにとっては愛されてないって事になる様なのですが、ファンを辞めるばかりではなく、逆にストーカーアンチになったりしやすい。昔、どうして好きなアイドルのアンチになってしまう人がこんなに多いのか、ものすごく不思議だったころがあったんですが、コントロールフリーク、という側面から考えると氷解しました。

そもそも、アイドル信者のコントロールフリーク的性向がなければこれは成り立たないビジネスってことは言えると思うんですが、ファンは気をつけなくてはならないですね。人権に対するリテラシーもジェンダーに対するリテラシーも低い東アジアですが(というより人権という概念が「無い」とまで言われることがあります。そこには論争もあるのですが、、、)、商業に対するリテラシーだけは相対的に高い。「ビジネス倫理」を「倫理的なビジネス」より優先し、そのことに気づかない、あるいは知っていても無視できてしまう状況があるということ。アイドルはファンが(あるいはプロデューサーの)作り出した「偶像」であって、ファンの願い(ファンタジー)をかなえるべく商業空間に存在しているには違いない。でも同時に彼らも人間であることを認めておかないと管理欲という毒でおかしくなってしまうのはファンのほうではないかなあ?アイドル本人も勿論ですが。。。彼らの幸せをファンが願う、願わないによらず、何が幸福かを決めることを含め彼らの人権は明らかに存在するし、それらは彼らのものなので。

追記:恋愛を完璧に隠せというのは、まあそれだけ恋愛という事を重視してるという事なんですよね、多分。てか、それがアイドルマーケティングの基本ですよね〜。恋愛しなけりゃならないという強迫観念が社会から消えたら、もう少しそういった管理項目や条件は緩くなるのだろうか????

暴行@国会に対してフェミが何も言わないということについて

大沼議員が津田議員に暴行されている動画を見ましたが、これについてリベラル、特にフェミが何も言わないって言われてるようなので、とりあえず一言記しておこうと思いました。

リベラルが民主党の失態をつつけないから、ということはあり得るとして、なぜフェミがあんまり出てこないのか?って言ったらこれって言い様があんまり無いからではと推察してます。とりあえず今の時点では判断を出すには情報がなさすぎる。

強いて言えるとすれば、暴力は悪い。くらい?

動画を見てても、いまいちこの様な状況に至った理由が明らかにはならないし、これが個人的な怒りが理由なのか、女性一般に対して向けられているものか、情報が不足しすぎていて判断が難しい。どんな理由があったところで、暴力は暴力だとしか言えない。敢えて言うならこれは無差別的な暴力とは言えるかもしれないけれど。

大沼議員が女性議員だから暴力振るうなとかっていうならピンクの民主党女性議員と同じだろ〜と思う。むしろ民主党女性議員のやり方はフェミ的では無いと言える。あれじゃあ差別してほしいと同義。無論フェミにも色々あると思うのでひとまとめ出来るわけでもないけれど。フェミニズムを大なり小なり学べばレディファーストが女性差別と同義と理解するのは難しくないこと。私達は女なんだから、別の扱いしろってんならそれこそが差別的。あれだけ暴力行為がじゃんじゃん行われてる国会と言う場でね?

セクハラの定義ももう一度おさらいしなけりゃならないようなレベルでしょう。結局民主も自民も男性議員も女性議員もそうそうは変わらないジェンダー観を持っている、てな事は日を観るより明らかなんだし。

リベラルと呼ばれる人々が、先鋭化していく一部を除きどんどんどんどん発言しない方向というか発言を内部に収めたり、討論を避ける方向に向かっているけど、それは自由がどんどんなくなって行ってる感覚とシンクロします。でもこんな時こそ何か言うべきなのに実際この状況で何かを言うのもゲンナリなのも理解できます。「ブロック化する社会」というのは長らくノンポリで政治性が生活上になんら影響を与えなかった期間の終わりも告げるものなのか?

2015年08月30日Part0(予告編)「ブロック化する社会をどう生きるか (文化系トークラジオ Life)

サヨク的な発言が嘘くさい、お仕着せで何も考えて無い、偽善的、と嫌われて狩られるのも理解ってるし。まあ黙ったところで、発言が無いというレトリックで再度狩られると言う事態もありえます(苦笑)。だから、気は重くても何か言わなきゃならないのでしょう。

ブコメもしましたが、この百木漠さんの記事はそういった意味で非常に淡々と大事なことが書かれていて面白かったですね。多分ネット愛国民がマスゴミというときにはそこには産経や読売は含まれてないし、保守系メディアを「メディアが〜〜」とか言ってるわけでも無い。彼らが本当に嫌い、「特定の思想」として攻撃している実態はなんとも曖昧な日本人のなかの「リベラルのようなもの」であると。それに反日という記号を付けて標的にしている。

評者◆百木漠|図書新聞

評者◆百木漠|図書新聞

当たり前といえば当たり前に、日本語で行われるヘイトが、日本人同士の間でこそ一番に目立つ。特にそういう事が嫌いな左側の日本人にとっては挑戦的に可視化する。そもそもそこへの投げかけであるとも言える訳ね。

2015/09/22 11:38

ただ、そうはいっても「なぜ」そういうアイテムが反日アイテムとして標的になってしまうかも考えてみる必要はある。そこで、「声」というものが少し浮かび上がるのではないか?メディアや政治家は、声を拾い上げる機能をもつからでしょう。私自身も沈黙が美しくみえちゃう様な文化的な滓を自分の中に持っていることに時々気づくのだけど、慰安婦問題にしろ、生活保護受給者、少数民族、LGBTにしろ、声を上げたところでたたかれることが始まる。当事者の声を封殺しようとしたり、沈黙を強いる言説が「愛国」とかぶるのもやっぱり明らか。そういう声を拾い上げる行為やデモに対して怒り出すのは、自分こそ国に愛されたいのに愛されないという飢餓感の為なのか?そこは憲法学の木村草太さんが愛国者こそ国に「愛されたがってる」と書いておられましたな。納得。

ほんと「愛」って醜いわ。。。

憲法の条件 戦後70年から考える (NHK出版新書)

憲法の条件 戦後70年から考える (NHK出版新書)

女がわからない、という言説をかみしめてみる。

多分「女」として生活する上で誰でもが一度や二度は(たぶんもっと頻回。いちいち数えてみる気もおこらないくらいの。)耳にする言葉。

これを言われる時のえもいわれぬ居心地の悪さ。 自分が突然正体不明の薄気味の悪い、あるいは我慢ならない非論理的物体に突然させられるわけだ。

そういう事を言ってるほうは想像してみたことはあるのだろうか?

相手は「女特有」とその人間がみなす性質や行為の特徴をソフトな形で断罪するとはなし的に、でも確かに断罪しているんだもん。

その場合の「女」とは一体「誰」なのか?と、考える。

(発言者の彼または彼女の目の前の)特定の個人? じゃなくて、女性器のある人類すべて? 足りない?性自認が女である人々すべて? それともそこにFtMも入るのか?

とりあえず、特定してくれないかなあ。。。 一体誰の事言ってんのか?

そのうえで、考えてみたらどうなの?

本当に女性器ついてる人々の行動すべてが当てはまるのかいな? てか、男性器ついてる人々も結構同じことやってない? (嫉妬とかあ、ヒステリーとかあ。。。いい年ぶっこいてアイドルや恋愛にはまるとか?。。) マジでいうなら人類の男女別の行動の特徴って呼ばれてるものは、社会的な習慣の集積と呼べるもので。そもそも構造から発生してるはずじゃなかった?

そういった特徴が「人間の形状(つまり性別)に本来的に由来したもんだ」、というならば、まるまるイ・クアンユーの世界だわ。。。

「文化(マンコ)は宿命だ」

いやいや、こないだCakesの岡田育さんと深澤真紀さんの対談で「女オンチ」てのがあったけど、そこは納得したの。つまり、現在の日本で「女子」として生きることは、本当に高いスキルを必要とするからね。確かに自分もKYを絵にかいたような人間なので、息づまる感覚というか、自分がズンドコすぎてはずかしくて生きてけない、日本じゃ(汗)。おにぎり二万個も握れないし。

我々はフェミニストなのか?ーーvol.1|女オンチな女たち|深澤真紀/岡田育|cakes(ケイクス)

素晴らしく「構築」された「女子」という概念を真摯に追求するスキルとスペックの高い日本女性達には本当に感心するばかり。「女子」ってホントに職業なのかもね。。。

いやそんな日本の女子道には及びもつかないけれど、女性器あるってだけで生きてくのは確かに面倒くさいよ?わからない人に、一つだけ教えとくけど、ただでさえ女仕様になってない世界で生きてくのはとりあえず「宇宙人」として息してるみたいなもんなんだわ。本日もクラスで話題ではあったが、最低限の衛生的生活が保障されるため、公の場所のトイレにトイレットペーパーがただで備えてあるのは皆の期待通りの「普通」でも、生理用品は「自己責任」なんだからね?面倒くさいのよ。生きてるだけで。ホント。。。

「女がわからない」

とりあえず、これは人類の約半分への理解を放棄しましょうっていう事よね..これ? ぶっちゃけ「わからない」とうっちゃろうとしてるわけでしょ?うっちゃれないだろうけど(笑)、大きすぎて。

わからないのは、自分{個人}の考えと違う行動だからなのか? 本当に相手が「女」だからなのか?そこに女だという先入観はないのか? 自分{個人}の感情としてそれらの行動が受け入れ不可能だからとりあえず波風立てないように「嫌いだ「という代わりに「わからない」と拒絶してるだけなの?

でもこうやってる限りずっとずっと人類の性別二元論は続いていくでしょ。合わせ鏡みたいなもんで。男はこう行動して女はこう行動すると、そんなにスパッと二つには割れないのが性でしょうに。人間の個別の行動と意味がわからない、というならともかくわからない対象がぽんと「女が」にすり替わる。だからこれって軽くミソジニーと呼ぶこともできるよね。理解の放棄は「排除」ととても近しいから。ある意味「戀愛工学」やナンパ師セミナーはこの「不気味なわからなさ」への挑戦なんだろうね。現代版の魔女狩りだわ。

理解しておきたいことは、この「わからない」という言説自体が正体のわからない薄気味の悪い「女」を限りなく再生産する装置である、と言うことでしょう。

アイドルがホモソ(絆)を救う?

なぜ男性アイドルグループが英語圏ではボーイバンドという呼称なのかを考えていたのですが、そのうちにそもそもバンド(音楽集団としての)がなぜバンドと呼ばれるかを考えたら、もっと話は分かりやすいと思いました。バンドといって一番に人々が思い浮かべるのは昨今はロックバンドなのでしょうが、まあ古風に言えば「楽隊」です(笑)。ボーイバンドというとアカペラを思い出す人も多いと思われますが、そもそもその身体性(少年の姿態および美しい声)をマテリアル化した少年合唱団なども、起源的にボーイバンドと呼びうるものではないでしょうか。それ以前に英語のバンドという言葉は帯でもあるし(ラジオの周波帯なんかもそうですね、同一性を表している。)、何かを何かと結びつけるものでもある。

では今日のポップカルチャーにおいて、ボーイバンドが何かと言えばやっぱり「絆」、ですよね。男子の。

bandの直接的な意味も「絆」ですし、その「絆」が(おもに女性のオーディエンスにとって)男性アイドルグループの重要な商品価値の一つになる事はごくごく自然なことと言える。

しかもK-popグループの男性アイドルの場合は背後に非常にホモソーシャルかつホモエロティックなファラン文化があり、現在も続く軍事文化があります。「絆」がアイドルグループのファンタジー的萌え要素として以上に現実味を帯びていることが、さらにファンの萌えを煽ったりするのではないかと思います。それは、ファンが兵役に就くアイドルに対して銃後の母の様相を呈していることからも想起されます。勿論、これは日本や他のアジア系男性アイドルグループにも概して言えることですが、短期ではあっても男子皆兵制度を採る韓国アイドルに最も顕著にみられる特徴ではないでしょうか?

女性オーディエンスは彼らのホモソーシャルを一般的に肯定的に受け止めているようですが、特に日本人女性、そして腐女子方面にこのタイプのファンが多そうです。前記事でやおいが脱構築と書いたんですが、現在の日本のオーディエンスはK-popアイドルに対しても非常に構築的なんですね。セドウィックの例を前記事にもひきましたが、もはやホモソーシャルをホモエロティックと読みこむことは何世代もフジョシ文化を重ねている日本では何の抵抗もなく構造化されてしまっているといってもいいかもしれません。

男性で、この仕組みがわからず、腐女子怖いと言っておられる方々は、脱構築方面ではなく、こちらの構造化されている方面を見てみれば納得しやすいかもしれません。つまり、ヘテロセクシュアルで常に行われている関係性(つまりパワーによる差異化)の再生産を男性キャラ同志の間に置き換えてみればいいのです。エロティックな要素を含んでいるだけで、一般に社会で行われている人間の関係性と大差ないと思いますよ?女性アイドルの「身体」が消費されるのとほぼ同じやり方で、「男性アイドル同志の関係性」が消費されている、ということがわかると思います。要は誰が誰をマウントしちゃうのか?が非常に重要というわけですね。でも、女性アイドルの男性ファンなら、百合でも無けりゃ、誰が、という部分は問題じゃないでしょう?主体は常に自分の目線だから意識される事が無い。

かたや男性アイドルグループの女性ファンはCPファンであることが多くその「絆」を愛着の対象としている。勿論ふつうに自分がアイドルと疑似恋愛するタイプのファンも多いですし、身体パーツ消費も単体萌えもちゃんとありますが、男性が女性アイドルを自らの「嫁」化する現象に比べ、圧倒的に彼女らは誰かを誰かの「嫁」(あるいは姫)にしたがる現象があります。だから男性のアイドルファンが自分と女性アイドルの間に関係性(所有感)を築くのとやや違い、アイドル当人を透過して「カップルの関係性」を対象化、オブジェクト化する傾向にありますよね。当人たちへの執着と関係性への執着が不可分になっている場合も多く、さらにはそれを通り越して「愛」や「関係性」のみのファンと化しているのが見受けられる事もあります。いわゆる絆ペンとか。それが面白いところですが。この対象となる関係性は「差異化」や「所有への執着」というヘテロセクシャル的な関係の再生産であることも多いのですが、しかし、性の起源を差異化におくとすれば、現在の日本の実社会において「対等な愛やセックス」というものは不可能に近いわけですし、想像の範囲内にもないのかもしれません。或いはしがない現実を受け入れる手段として二次創作においてそういうものを再生産しているのかもしれない。表現物において(FFやファンアートなど)ホモエロティックを扱いながらも非常に異性愛的な表現が見られるのは、実社会の反映として頷けるところなのですが。(ホモソーシャルは非常に異性愛的でもあるってことですね。)

そこなのですがじゃあ一体アイドルファンおよびアイドルは今のこの日本においてホモソを救うために機能しているのか?という疑問が湧いたんですね。

で、実は先日、二村ヒトシ氏x金田淳子氏x岡田育氏のご本『オトコのカラダはキモチいい』を読ませていただいたのがきっかけで、今度は中村淳彦さんの『ルポ:中年童貞』に手を出したのですが、めちゃ面白かったです。そのなかに在りましたよ。アイドルオタクで中年童貞というケースが。アイドルとの疑似恋愛で満足が得られ、もはや現実の女が不要になっているケース。この場合は、女性アイドルが彼のホモソ的心性をアイドルオタクファンダムの構造において救っているわけです。

中年童貞のルポでは女性に「持てない」男性が会社組織という「ホモソーシャル」からも排除されるさまがかなり詳細に記録されているのですが、まがりなりにも一人の「女」も「持てない」男は、ホモソ的には完全に落伍者でしょう。藤沢数希さんの『恋愛工学』ならば足きりに遭ってるところです。それを女性アイドルが救っている。アイドルと言いながらも、構造的にはファンは彼女らに投資することで管理し、ある程度の支配をすることが可能です。AKBの恋愛禁止なんかがその最たるものでしょうが、それが破られた暁に、峯岸みなみ坊主事件はおこったんですよね。頭をまるめるって、スポーツ部の不祥事の対処なんかを彷彿とさせる、いかにもホモソーシャルなフラッグじゃないですか?

男性アイドルの女性オーディエンスの場合、特に「婆」人口の比較的多いK-popファンダムの場合はリアルでは夫や子供がいてそれなりに社会に同化している場合が多いですから、中年童貞群に比べたら「社会から排除されている」とは見えない事が多いです。が、しかし、実はその「主婦」あるいは、「兼業主婦」という「居場所」たる家庭は実は社会においてはかなり周縁化された位置と言えるのではないか?この層は完全に愛国奥様とダブっている。そして実は『中年童貞』においても、ヘイトスピーチを繰り返すネトウヨ層が挙げられています。周縁化された人々をアイドルが救い、そのアイドルを消費構造が「守って」いる。

女性アイドルは自らすすんで周縁男性ファンによって対象化されることでホモソを救い、男性アイドルの女性ファンは自らの周縁的位置関係によって否応なくホモソの偶像化に走り、その巫女化する(それ故韓国男性アイドルを過度に消費しようとする?)といったような事が行われていて、結局ホモソを中心とした消費構造が延々と続き、男は壊れかけて居り、女が必死にその壊れかけたホモソを維持する側に回っているっていう図が見えてしまうのは私の目がおかしいんでしょうか?女性が、受動にしろ能動にしろ、巫女的役割を引き受けてしまっている。女性アイドルを「キリストを超えた」と評している皆さんは、自分達のホモソを救って貰ってるという意味でそうおっしゃるのか?なら例えば東方神起はどのように捉えるのでしょう?この名前見て、何も感じないかな?大東亜の神っていったら天皇では?

前にも書いたとおりユンホを父、ジェジュンを母とする「家族の肖像」は、「アジアの家族の肖像」では無いのか?という感覚は前からあります。そして父といえば天皇を挙げる日本人ですが、昭和でも、大正でもない「明治」が特殊な偶像性をもって今だに日本人の物語をかたどっていますよね。前田敦子がキリスト越えなら「ユンホは(明治)天皇を超えた」と言えなくは無いのでは?実際、神性という点でユンホのような父性を強調できる「男神」は今現在日本の芸能界には居ないように見受けられますし。というか、前にも言いましたように背景に「父の不在」が有ったからこそ、のこの状況ではないか?聖なる父ユンホと聖なる息子(チャンミン)のホモソーシャルは切ない物語性をガンガンに孕んで主婦層を「失ってしまった父」神話の再建に掻き立てる。息苦しいくらいに。特に愛国奥様でありかつ東方神起ファンと言う方々の自己矛盾にさいなまれる姿は非常に痛々しく映ります。しかしまたその人々が吐き出すぞっとする様な嫌韓発言、ヘイト、慰安婦や少数者への差別的発言を見ていると、この絆への献身、ホモソの補強が女性やマイノリティの分断、序列化とその永続化、ファンダムの分断、序列化と重なり合う様に絡んでいる事も見えて来る気がします。二人の東方神起が日本での人気に相反する様に韓国内で勢いを無くした事、そしてこの物語が一方では東方神起分裂に伴うJYJ(ジェジュン、ユチョン、ジュンス=女子供)の日本の芸能界からの事実上の排除と周縁化である、というのも偶然では無い気がしています。

しかし、です。このような東方神起現象を世界規模で見てみる時、実はそういった絆にベタに「普遍的な関係性」を模索するファンも少なからず居るということに気づきます。というより性を差異化と逆方向に牽引しようとするタイプの変化が見えるというか?(可能かどうかは別として、ですが。)欧米のK-Popファンはアジアに比べて年齢層が低く、また腐女子歴も短い。マイノリティも多く、現実のLGBT方面と親和性が高く、こういったファン層はカップル信仰にしてもナマモノ取り扱いにしてもあまりお約束に縛られる感じは有りません。この様なファンのあり方に逆に影響を受けた日本のファンも少なくないかもしれませんね。フジョシ的なコンテンツは往々にして性的でもありますから人権に抵触するような行動、言動は注意が必要で、勿論避けるべきでしょう。ただ日本の腐女子の歴史が長いことで海外ファンにセンパイ呼ばわりされるのとは裏腹に人権リテラシーが実は弱いというのは有ります。著作権や企業権益リテラシーは高いのですがね。日本人やアジア人の高齢ファンが良くやりがちな「OOはゲイじゃない」「XXはホモじゃないから」と騒ぐことなどがそれにあたるでしょう。そういったことが少数派セクシュアリティーを異端視して差別することに繋がるというのは欧米人のファンは若年層でも生活上の知識で知っているため、そのような形で騒ぎ立てることはよほど年齢が低くない限りはあまり見かけない。ファンの振る舞いにもコンテンツにもグローバルスタンダードが必要って事になって来るんじゃないでしょうか?

そんなこんなの現象をお約束違い、腐はゲイとは違うとして嘆く古参腐女子も見かけますけれど、私は腐女子の意識にもジェンダー視点は広く持ち込まれるべき時期に来ていると思います。ホモソへの親和性は消費構造に乗るためには有効だったかもしれないのですが、お約束や恋愛工学を追求すればする程辛くならないですか?まあそういったものは恋愛やらセックスといったものの身も蓋もない構造を学ぶ為には有効かと思うんですけども。そもそも救うべきはホモソなのか?ホモソーシャルはそういったものへの欲望装置でも有りますから、救いたい感情があっても不思議ではないですが、しかし逆に欲望を強制される事ほど辛いこともない気がするんですよね?

それらを考える為にもこういった変化もとりあえずは受け入れる、ゆっくりと考えて行くべきもの、と感じております。