夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

眼鏡とまなざし

気が付いたら1年半もブログは書いていませんでした。引っ越しとフルタイムで仕事に復帰して2年あまり。毎日かなり緊張していたように思います。

これは以前Stellarについて書いた記事の前後に出てたPVでいつか取り上げようと思いつつ今になって仕舞ったもの。

2019年、ネットフェミニズムの嵐が吹き抜けている日本でも女性アイドルのこんなMVにお目にかかることはまだまだできません。設定はというと…

可愛いBESTieメンバが近寄るジェントルマン風の男たちをとある眼鏡をとおして見る。とそこに現れるのは男たちのあけすけな欲望の「まなざし」や「ホモエロティック」。この眼鏡は腐女子眼鏡か?はたまたフェミ眼鏡か。。。フェミニズムや腐女子という現象を可視化のツールととらえる自分にはこの視点がピンと来ましたが、これを援用してMVを造るまでになっているK-Popはやはり面白いと思った事を記録しておきます。

最近SMのRed VelvetのIreneがフェミニズム本を読書しているとインスタに上げて炎上したりしているところを見れば、韓国のフェミニズムが対峙している状況も一進一退といったところなのでしょうが、それでも暴漢に襲われた被害者のアイドルが舞台で謝罪し、犯人は不起訴になる日本と、アイドル本人たちの何がミソジニーなのかに対する認知度がはるかに違ってきている気はしています。


タイトルに入れた「まなざし」はこの数年でSNS上でハッシュタグつきで揶揄され、スティグマになりかけているこの言葉をそろそろreclaimしても良いのではとの思いと、PVの中のBESTie達が「私達も見られるだけではなく、時には見ている」側に立つという部分を同時に表現できるので付けて見ました。Queering「まなざし」(^^)…

 

Bestie-Excuse Me


[ M/V ] 베스티(BESTie) - Excuse Me

オスカーのこと

オスカーのこと

 

2017年9月23日6時22分、我が飼い猫にして我が主人(私はしもべ)、オスカーが亡くなった。一緒に暮らして15年と少し、推定15歳7か月。私は勇気が無くて安楽死をためらってしまった。最後に苦しませてしまったこと、悔いている。ただ、安楽死させたとしても結局悔いていたとは思う。どちらにしても悔いは軽減するわけではないのかもしれない。

 

21日木曜日お昼頃に倒れ、少し痙攣があったのち昏睡状態になった。ところが夜中に体が暖かくなったなと思っていたら普段ゆっくり寝ているときのように頭を前足の中に入れるしぐさをして、すこし伸びをするとなんと目を覚ました。そして体を起こそうとする。支えてやると何とか起き上がった。なかなか後ろ足が動かない。それでもよろよろと立ち上がり、その辺にともちゃんがぬぎちらした洋服の山を越えてどこかへ行こうとする。ふらふらするのを支えてやりながら向かったのは玄関ドア。

 

外に出たいんだろうか、オスカー?タオルにくるんで抱っこして2-3歩外にでた。金曜日朝3時半くらいか。。。まだ薄暗かったけど、外は見れたね、外の空気はおいしかった?オスカー。その後また玄関に戻すと玄関前の床下が一番暖かくてお気に入りの場所に香箱座りをした。私は物陰にかくれた。だってじっとみられたり邪魔されるのは好きじゃないからね、オスカー。ちょっとの時間だったけどいつものオスカーに戻ったみたいでうれしかった。でも彼の命が尽きようとしているのはもうわかっていた。しばらくしてガチャついた音が聞こえたので見に行くとキッチンの端まで移動した彼は犬のシドニーの餌と水用ボウルの前にいた。水を飲むようなしぐさを見せたけど飲まず、倒れこんだ。以後丸一日昏睡と痙攣を何度か繰り返し、苦しい呼吸をして土曜の朝逝ってしまった。最後は苦しかったんだろう、何度か大きな声で鳴いた。。。最後まで戦っていた。勇敢だった。ごめんね、オスカー。Mommy助けてあげられなかったよ、今回は。

 

オスカーの体重が減り始めてからかれこれ2年くらいだろうか。獣医にみせても多少の貧血以外何も見つからなかった。伝染性の病気でもなかった。なんとかしたいと思ってハーブ系のサプリなどを飲ませたり、高カロリージェルをあげたりして少しは体重が戻った。何度かそれを繰り返し、タンパク質や油分の割合が高いフードにたいして吐くことが多くなったので、消化に配慮した餌をお湯で少しふやかしてあげていた。ウンチの様子から見て胃腸の調子はそんなに悪くなかったと思うけど、でも体重減少は止まらず最近は骨と皮ばかりに痩せていた。カリフォルニアに引越しした当初はジャンプして登れていたキッチンカウンターやテーブルにこの夏の初めごろには登れなくなった。きっと長くないと覚悟した。それでも食欲は旺盛で椅子に上ってからならテーブルには登れたし、私たちの食べ物をほしがる様子も以前と変わらなかった。倒れた日の朝も私を寝室のドアのところまで迎えに来て、餌と水を待ってましたとばかりに彼用にしつらえたEating Stationに運ぶと軽快に二段跳びで登ったのだけど。

 

オスカーを見送ったのはサンタクルーズに向かう途中のロスガトス付近の火葬サービス。車では私が箱を抱っこした。軽かったなあ。。。多分一番体重があった時の半分以下になっていたと思う。月曜からDaddyの出張もあるし、グランマが午後にデイトンから到着するわで、今しかないというタイミング。なぜグランマが来る本当に直前に亡くなったのか、本当に偶然?グランマは絶対安楽死をすすめるだろうというのがわかっていたので、来るという連絡があったひと月ぐらい前から、なぜ安楽死させないのと言われたらいやだなあ、どうしよう、、、とか言っていた。あれ聞いてたの?引き渡しだけで、焼いた後で連絡をくれるという。あっけない別れ。ふわふわのタオルをかけてやり、字が読めるわけじゃないけどお別れのノートを入れた。最後に撫でてあげた。もう喜んではくれないけど。

 

オスカーは私たちと過ごした15年楽しかったかな?私たち家族はオスカーの頭の良さや、王様のような堂々とした態度にやられっぱなしだったように思う。DaddyはBadAssと呼んでいたもんね。ほかの猫のようにデレたりすることはなくて、LapCatでもなくて寂しいくらいクールなオスカー。抱っこされるのも嫌い。Mommyだけは抱っこの方法を知っていたので少しの間ならさせてくれたけどね。

 

オスカーが我が家に来てくれたのは2002年8月の終わりごろだった。友人Boさんが、私たちがついに念願の家を買い、ついては猫が欲しいといっていたのを覚えてくれていて「かわいいクリームカラーのキティがいるよ」と教えてくれた。Boさんの当時の上司であったDianさん一家がマクドナルドのごみ箱のところでうろついていたのを保護していて、でももうおうちで8匹も猫を飼っていて増やせないからと里親を探していたのを連れてきてくれたのだ。クリーム色という色のアメリカ人との感覚の違いを認識した時でもあった。まだおぼえてるよ、Dianさんの当時16歳の娘にだっこされてたオスカー。オレンジというよりはうすーいベージュの、タビーには違いないけど胴体部分は縞模様があいまいでほとんど縞が見えないきれいな被毛と、6か月にしては大きな骨格と長い体躯。でもまだ若さいっぱいの遊び盛り。多分メインクーンが少し入ってるかな?という感じ。私たちはSICSAという地元のシェルターを介して予防注射の手続きなどをすませ彼を引き取った。

 

詳しい日付は残していない。日記をつける習慣のない私。アホか。記憶力だけを頼りに生きていくのはもうだめだと思ったのがつい最近だなんて本当に大人げない。それでもアルバムをごそごそしてみたら、最初の写真が出てきたよ。2002年の9月9日。グランマの深紫色の椅子にちょこんと座りこちらをあどけなく、緑の目で見つめるオスカーの写真。続けて当時4歳を迎えたばかりのともちゃんと子供部屋で遊ぶオスカーの写真。ともちゃんにお願いしてシャッターを切ってもらった私と一緒の写真は私の顔半分と彼の胴体しか写っていない代物だけど、フォトグラファー4歳だから仕方ないか。

 

前足の爪を抜く手術をしてから、足で砂をかけるのが痛くて嫌になったのか。。。トイレを使いたがらずおしっこをいろんなところでするようになり、同時に外に出たがるようになったオスカー。気持ちを落ち着かせるキャットフェロモンだとか試してみたけど治らなかった。うんちはちゃんとトイレでしてくれることが多かったけど。でも外に出るようになってからアクシデントは減った。外にでるといっても両隣の敷地くらいの範囲しか出歩かないし、帰ってこないということはほとんどなかった。でも寒いときは凍り猫にならないか心配したっけ。ドアの前を他のうちの猫が通るとめちゃくちゃ怒ってドスの効いた唸り声をあげる。でもジャンプや走り抜けるときの動きは優雅というか速度と軽やかさが有り、するっとシームレスな動きで人の読みの一歩先をいくので、なかなか捕まえられない。

 

リスにはいつも臨戦態勢。前庭の茂みの中がお気に入りの隠れ場所。ほふく前進するときの鋭い瞳は、最高にかっこいい。時々ポーチからリスとの接戦目撃したっけな。庭にはほかにもいろんな野生の動物がいたので、結構お土産がドアの前に置いてあることもあった。ネズミに鳥に、オポッサムETC..シドニーとどっちが捕ったのかわからないけど。お土産を一番よろこんでいたのはDaddyだったかも。爪のない前足で良くやったと思うけど、彼の最大の武器は瞬発力と後ろ足の強さ、鋭い歯とあごの力かな。私たちも機嫌を損ねるとガブッとやられ、相当に痛い思いをしたけど、高齢になっても歯はほぼ衰えず、食べたいものを食べれたのはよかったと思ってる。とにかく食べるのが大好きだった。

 

一番お気に入りの思い出は、お決まりの場所である前庭の茂みにいるオスカーが私が買い物から帰ってくると車のちかくまでよく迎えにきてくれたこと。ドア前まで私の前をあるいて「誘導」してくれた。隣の庭の木の枝にいてチェシャ猫みたいになってることもあって笑っちゃったな。車が家に近づくととことこと庭を横切り私の車の助手席側のあたりに待ち構えていた。助手席に置いてある買い物袋をひっぱり出して私が家のほうをふりむくとしっぽをピンとたて、こっちだよ、ついてこいというように振り返り、小走りに私の前を行く。そして私が玄関ドアを開けるのを毅然と待つ。

 

オスカー。

 

最後の1年近くはアパート暮らしになってしまったから、お気に入りの庭で遊ぶことができなくなってしまった。ごめんね。一緒にカリフォルニアまで来てくれてありがとう。来るときは車にすし詰めのロードトリップで、疲れたよね。今はゆっくり休めているかな、苦しさももうないかな?自然に囲まれてゆっくりひなたぼっこできてるかな?いつかMommyがそっちに行ったらまたMommyと一緒に暮らしてくれるかい?好きな鮭やサバやおさかな缶もチキンもなんでも食べさせてあげるよ。膝にのらなくても時々前みたいにベッドの足元やカウチの背もたれで一緒に眠ってくれたらうれしい。スフィンクスみたいにかっこよくカウチの手すりに乗っててほしい。のどや頭をなでてあげたらゴロゴロしてくれる?オスカー。さびしいよ。食卓の隙を虎視眈々と伺う薄茶色のモンスターがもういない。でももう病気と戦わなくていいのはよかった。ともちゃんもそれがほっとしたって言っていた。そういえば父が死んだとき私もそう考えたな。動物だから、安楽死をと思ったところもあるけど、父と同じと考えたらいいのか。それにしてはお世話をした時間が短くてあっけなかった。もっともっとおいしいものをたべさせてあげたかった。こんなに早く行っちゃうなんて。アマゾンに追加のチャオチュールをオーダーしてもう明日届くというのに、こんなの書いてるなんて。。。オスカー。心残りがつきないMommyだけど、許してね。ありがとうね。ピーピーアクシデントには悩まされたけど、今となったらおしっこのにおいさえ恋しい。誰かがそんなことを亡くなった猫について書いてた。嘘、っておもったけど本当だった。オスカー。また、一緒に暮らしたい。

 2017年9月25日

 

私のベッドでくつろぐオスカー。美しくもあいまいな縞模様。 

2013年4月撮影

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*オスカーが亡くなってまもなく偶然中川翔子さんことしょこたんの愛猫マミタス様も亡くなったのを知りました。それをしょこたんが報告したら13歳という年齢のせいで何か言われた模様で。。。偶然重なった死ですが、自分のことのように痛かった。わたしもとても理想的な飼い主とは言えない。でも、オスカーのことは大事に大事に思っていた。しょこたんだってマミタス様を大事に思っていたはず。ペットというけど、そのひとの心に占める存在の大きさは動物を飼う技術とかと比例するわけじゃないとおもうんだけどさ。そんなこと言ったら、ガキの育て方だって、わたしなんて全くなっていないし。だからっつって粗末にしてるわけではないんですよ。悲しんでいるひとに結果論で説教するしかできないなんて、どういうもんだろう。。。それともそれはツイッターだから、なんだろうか?とりあえず怒ってみてもしょうがないし、悲しみも癒えないから、マミタス様のご冥福もここに合わせてお祈りいたします。   

ウガンダのホモフォビアと「日本会議」。

 

ウガンダ大統領が、同性愛を非合法化する法案を通したというニュースはまだ比較的耳に新しい*1 ですが、その後、ロシアでも同様の同性愛排除の動きや、政権によるホモフォビア発言などがニュースになりました。*2 

欧州やアメリカの同性婚を法的にも認める動きが2000年代から大きな潮流となり、あの保守的なカソリック教会までが軟化する姿勢をみせたり、ついに日本でも渋谷区が同性カップルに証明書を発行する流れとなってきた、まさにそのタイミングで相反する主張が次々と現れたわけですが、このウガンダとロシアという遠く離れた二つの国でほぼ同時に興ったホモフォビアの嵐に、非常に似通った言説がみられると指摘しているのが、下の動画のリポーターJeff Sharlet氏です。

www.youtube.com

Sharlet氏によれば、この遠く離れた二か国のそれぞれのホモフォビア的主張のなかで、共通して使われる用語が ”family value”であり、”Traditional value”であるということで、これは米国に本拠を置く宗教右派にあたる福音派教会や右派シンクタンクの政治的主張に使われる用語とまったくと言っていいほど同じである、ということ。また政権の背後にこのキリスト教福音派の援助、影響は否定できないであろうこともリポートされています。

ウガンダの反同性愛の主張は、いわく、グローバル化によって欧米の悪しき文化が輸入され、その影響でこういった「自然に反した変態性欲=ゲイ、レズビアン、ホモセクシュアル」が現代自国文化のなかにはびこった。これはウガンダの伝統、家族の伝統を壊していると。が、それに対する「救済」もまた西洋からやってきた、という言説のようですが。

アフリカ文化や社会をいくらかでもご存知の方であれば、この主張のおかしさがお分かりでしょう。つまりウガンダ社会にはもともと豊かな同性愛文化が存在していたということ。そして、現代ウガンダ社会が西欧から輸入したものは「同性愛」などではなく「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」という概念ではないのか?地域のLGBT運動家、研究者からはこのような声があがっていますね。

日本でも渋谷区のニュースが駆け巡った際に、右派の論壇でつかわれていた常套句がやはり、「同性愛は家族、結婚という伝統的価値を壊す」ということだったと記憶していますが、これらは最近話題に上ることの多い「日本会議」の主たる提唱事項、価値観ともかぶるものです。

これがはたして本質的に信仰の内容と関連があるかは疑問が残りますが、確かにホモフォビアはヨーロッパでユダヤ、キリスト教文化圏が拡大していくこととともにその教義に反する人間の行いとして、先行的に現れたわけですが。でもそう言った価値観は産業革命を経てドラスティックに変化した近代家族制度(異性愛中心主義、一夫一妻制)と資本主義をともなって他の地域に流れ込んでいった、いわゆる植民地主義的価値観ですよね。

非常におかしいのは、ロシアもウガンダも、そして日本も同じようにこの「植民地主義」的、19世紀的な価値観を「伝統」と呼んでいること。ちなみに日本文学、文化の嚆矢橋本治氏がこれについてどう考えているかという記事がたまたまリテラに載っていましたので下記参照させていただきました。

lite-ra.com

戦後GHQによる洗脳論が今のところ盛んに言われて居るようですが、だったらそれより前に明治維新からの西欧型植民地主義、近代家族制度による「洗脳」はどうなのか?現在も世界の各地で起こる酷似した言説に一体どのような説明を付けるのか?

植民地主義の暴力性は今更私が語るまでもないことですが、特にアフリカ大陸では地図を見ればその爪痕が定規で引いたようなまっすぐな線の国境線として表れています。たぶん、民族や村落などが住民にとっては無意味に分断されて行ったであろう線ですね。例えばコンゴは、今でもレアメタルをめぐる利権など政治が混乱、内戦をひきずって、多くの女性が自国の兵士によってレイプされていますが、兵士の彼らにインタビューを試みたドキュメンタリーでは、彼らがなぜレイプするかという目的の一つに相手方の「家族を壊すこと」が上がっていたのに衝撃を受けました。被害者はレイプによる暴行で亡くなるケースも多いようですが、命が助かってもレイプされた妻を夫が受け入れるのを拒んだり、レイプ後結婚が破綻するケースが多いといいます。また地元の村社会からも存在を排除されてしまう事も多いと。

家族という「価値」を壊して利用するのは同性愛者でもなんでもなくて「戦争」や「テロ」という暴力であり、そのストラテジーじゃないか?家族が価値を産むものだからこそ、その社会を分解させることが勝利への近道。逆に考えればその社会を壊そうとするならある一定の「価値」を設定しておいて、それから壊せばいいという考え方もできます。家族や女性をpolitical economy とする植民地主義は、それらの価値観を確実に世界中に植え付けた、と捉える事が出来ると思います。

コンゴの内戦についてはそのあまりの女性に対する暴行のひどさから「女に対する戦争」ではないかという声も出ています。たしかに「産む性」を根絶やしにするのは究極的な戦略かもしれませんが、そうやっていけば戦争で不毛となった土地ともどもただ滅亡するだけではないかと思うのですが。。。。それにしても、インタビューに答える男性兵士たちもとても不幸に見えました。食料も、抱きしめてくれる家族も「俺には何もない」と言った兵士はまだ本当に少年のようでしたが。

 

*この記事を書くにあたり去年アメーバなうで日本会議の話題を持ち出してたことも思い出しました。今年は物凄い話題に成ってますね。

 参照:

Baldwin, Tammy, et al. "An Open Letter to the President of Uganda." Gay & Lesbian Review Worldwide 17, no. 5 (March 2010): 5. Humanities Full Text (H.W. Wilson)

The paradox and tension of moral claims: Evangelical Christianity, the politicization and globalization of sexual politics in sub-Saharan Africa Kaoma, Kapya. Critical Research On Religion Volume: 2 Issue 3 (2014)

Congo soldiers explain why they rape - YouTube

脱アイドル:其の二。去らば、いとしきSMAP!

SMAPが解散します。

ravensk.hatenablog.com

結局、このとき書いた矢野利裕さんのラジオでの発言通り*1解散することになってしまいました。誤解のないように言っておきますが、矢野さんはこのとき、SMAPにとっとと解散してほしい、という意味あいで言ったのではなく、一にも二にも、彼らを愛する者としてSMAPはSMAPでいてほしい、なのに事務所があのような演出をSMAPにあてがうのはいかがなものか?という警告を込めて発した言葉、と私は理解しました。矢野さんのSMAP本を読みたいのですが、海外ゆえKindleになるのを待つとして、こちらに最新のウェブ記事も貼らせていただきます。))

realsound.jp

ともあれ半年後の今、SMAPは現実に解散に至ることになり、メンバー各自からのコメントも出されました。このコメントについても彼らの真意をなんとかそこから斟酌しようと解釈合戦がネットで繰り広げられているようです。そこには全く加担する気はないですが。*2

思えば、あの謝罪劇に納得いかないファン(茶の間含む。国民的アイドルゆえ。)は多かったものの、でも確かにその謝罪によって彼らの解散は「非現実」の様相を帯びたのではないか?ということは考えてみる必要があります。

そう、永遠に解散せず、おじいさんになってもアイドルを続ける「SMAP」のイメージをきっと多くの人が脳裏に一瞬は浮かべたことがあるに違いない。あのとき首相までが「解散すべきではないグループ」としていた事、「絶対解散してはいけないグループ」「SMAPおじいさん言説」が巷間とても広がった。しかし、それがなぜかという理由は往々にしてきっちり説明されていなかった気がします。なぜかしらねど、万難を排してグループでいるべき、、、whyうぇ???勝手に決めないでほしいのよね??

そこには彼らはやはり事務所の作ったブランドであり、彼らを動かしているのは芸能事務所であり、メディアであって彼ら自身ではない、という当たり前に日本の観客が受け入れてきた「アイドル」不文律があるのではないか。言ってはいけない。SMAPは必要かどうかなんて?

 

で、そもそもアイドルは必要、でしょうか?

 

実際必要とされて商品になったわけではないのに、原発でも自動車でも電気ですらそうですが、いったん市場に供給された商品がいつのまにか「必要」とされ恒久的に販路に上がるように、彼らは「永遠化」していった。

ただその「永遠」の流通に判を押すのが「事務所」であり、その事務所が抱き込んでいるメディア、ということをこの時点で悟らされた人もたくさんいる事でしょう。この状態は、考えてみればいかな才能の保持者、美しい容姿であってもメディア露出、市場への流通のきっかけ、チャネルがなければ、ファンが姿を見ることすらもかなわない「商品」という身も蓋も無い現実を指しています。

そして存在を担保する主体は芸能社とメディアの結託した芸能・媒体コングロマリット。そのなかでもジャニーズ程大きな力を持った事務所もない。であるから、享受する側はただ手をこまねいて彼らを崇め奉り、賽銭おさめてればいいというメッセージとも、ジャニーズ事務所のとってきた態度はうけとれる。はっきりいうならアイドルを享受する消費者への侮辱ですし、その根源には芸能そのもの、および芸能を生業とする人々への蔑みがあるのではないか。しかし誰も大きな声を上げない。*3

この辺りは、さっきおみかけした松谷創一郎さんの記事も触れていらっしゃいましたね。

bylines.news.yahoo.co.jp

テレビが独自取材を避けるというのはようするにジャニーズ批判につながる立場を避ける、ということですね。松谷さんはその情報ソースのロンダリングサンプルとしてサンケイ、夕刊フジ、フジテレビをぐるぐる回る情報についてわかりやすく解説しています。*4

 

こんな「永遠」は要らない。

だから、私は矢野さんの言葉に共鳴しました。どこかでこのままつつがなく続いてくれることも期待しながら、でも自由なSMAPを願った。それが幻想であったとしても、ほかならぬ彼ら自身からSMAPは自由だという幻想を私たちはもらったわけですから。 

ジャニーズあってのSMAP、それくらいは私たちも知っている。SMとエイベックスあっての東方神起、と同じくらいに。しかし、5人はジャニーズにこそ残りはしたものの、SMAPとしては解散する道を選んだ。

思いました。実はこれは画期的なことではないのか?これによって、SMAPは実にギリギリではあるものの彼ら自身を奪い返したのではないか?いや彼らは会社のものでありながらも自己決定権を捨てているわけではない。そのことをやっと明らかに見せてくれることができた機会が、くしくも解散であった、というだけ。自分たちが決めたグループの始まりではなかった、しかし事務所の仕掛けた「永遠化」のサイクルを断ち切ったのは自分たちで。報道された仲たがいがたとえ事実であったとしても、いえ、今回のメンバーコメントが事実に近ければ近いほど、過去に仲良く、楽し気な姿にも嘘はない、と私には思えるし、現在のメンバーの葛藤を責める気にはとうていならない。ありていに言って、そうそう仕事仲間が「仲良し」ということのほうが不自然。まあ不自然なほど仲良しな人々も居ますがねw。むしろ、正直に葛藤をさらけ出しての誰も得をしない(正直とんでもない損失になる予定の)解散というかたちでしか自由の証明は難しかったかもしれません。

私たちの自由なSMAPは、解散によってもう一人のメンバー森君もつれてファンのもとに羽搏いた、そんな気がします。その意味で、決して彼らは終わらない。彼らは自分たち自身で「ポストSMAP」の道を歩き始めたとも言えるでしょう。

彼ら5人が今後もずっとジャニーズに残り続けるのかどうかはわからないですが、今は自由な姿を脳裏にのこしてくれたことを五人に感謝するばかりです。好きですよ、SMAP。決して「必要」ではないけれど、いてくれて楽しかった。時に癒され、ときめき、時には力になった。私には『夢がMORIMORI』あたりからの決して短からぬ時間でした。きっと多くの人が似たことを思っていることと感じます。本当にありがとう。

 

追伸。いつも読んでいただいて恐縮です。人間そうそうオリジナルな考えなど持てないものです。しかし、plagiarismはなるたけ避けたいと考えます。そのために注釈やリファレンスを入れます。出典、引用を記します。私の書いたものも同様に扱ってほしいと切望しておりますので、よろしくお願い申し上げますね?

 

*1:「そんなもの(2016年年初、15年末の解散騒動報道を受けてのフジテレビでの生放送謝罪劇を指す)見せられるくらいならいっそ解散してしまえ」という言葉。2016年2月8((ここに脚注を書きます日放送、TBSラジオ 荻上チキSessionー22にて。

*2:SMAPが絆を維持できずに崩壊したことを東方神起の分裂になぞらえるトンペンは多く、ほっつき歩いて読むと、SMAPの仲の良かったころの動画を見てもウソのように感じるとか?今更何を言ってるんだろう的なものも散見されます。「舞台上のアイドルとしての完璧に作られた彼ら」が好きと言っておきながら、そっち?プライベートでは仲良くなくていいんじゃ?演出されたファンタジーが好きなの?嫌いなの?どっち?よくわからないわ。いや、どこのメンバーも仲良かった時もあるし、喧嘩した時もあるんじゃないですか?人間ですもの。。。うんこもセックスも泥酔も交通違反も暴力も醜い仲たがいもするんですよ(たぶんw)なんならトイレフェチかもしれないですしね???みちならぬ間違いもおかす。別にそれを推奨しているわけでは全くないですけどね。

言っておきますが、他称フェミニストのあたくしは個人間の自由意志に基づく売春、セックスワークは肯定しております。でも人身売買を伴う組織的売買春は否定の立場。そして男性の性欲が制御不能で、レイプや性暴力につながるから性処理に性風俗でのあてがいが必要、とか(社内恋愛推奨も軽く含みますね。配給なのか?という点で。)、そういった見解は全く持ち合わせておりません。悪しからず。

でもって、こういったドロドロを見せられて「萎え」を感じたか、偶像が嘘くさいなどと言ってる女には、現実の女が自分とのセックスで「潮吹かない」から「ちゃんとした女じゃない」「嘘つき」だって言ってる男に似たものを感じます。

まさしくね、天皇陛下が人間なのとおんなじに、残念ながら人間なんですわ、彼らも。そして、コントロールフリークにとっては陛下もSMAPも人間以下のようですよ。人権がみとめられてない。中森明夫さんも言ってたけど、天皇ってアイドルだよね。「象徴」ってそういう意味じゃん。このところ今上陛下を政治的だの、左翼だから首を挿げ替えろとか言ってる極右系言論とかみてますけど。だけど、なんでこうもトンペンやJYJのペンに愛国奥様が多いのかしら?旭日旗が踊ってたり、桜チャンネル貼ってあったり。でもって文化に政治は無用とかいうけど、無用の対象は実際左よりの言論だけじゃない?どこのネトウヨかと時々感慨を覚えるほど、ほんと多いんですよね。

*3:まったく、ファンに取ってアイドルは人質のようなものですが、しかしこれがSMエンタやシジェス当たりになるとわりと簡単に扱きおろし、批判するファンの声が大きくなるのは、韓国への差別意識のなせる業、でしょうか。

*4:ちなみに、近年スポーツ紙の範疇を飛び越えて気を吐く「日刊ゲンダイ」には情報元明示、事務所とメリー副社長名指しのこの記事が載ってましたけど。SMAP解散の決め手になったメリー喜多川氏“親バカ”の一撃 | 日刊ゲンダイDIGITAL

みちならぬこと

昨日、前記事を書き上げた直後に文春のスクープの件がTLに流れてきました。そしてLivedoorから先ほど荻上チキさん謝罪のニュースが流れました。奇遇といえば奇遇です。

news.livedoor.com

しかし、なぜ婚外恋愛を不倫と呼ぶのか?

ウィキとかには「金妻」が初と上がってますが、理由は載ってませんでした。ウィキはまあそんなものだとして、一夫一婦制が定着しはじめた明治期の「姦通」から「不倫」に至る流れに男女の関係が「性関係の所有」から「恋愛関係の所有」に変化した事が見てとれそうだなと思いました。そして「不倫」という言葉の発生はある意味、「金妻」(80年代後期から90年代前期)の時期に結婚制度が恋愛を基本とする制度に完全に移行したことの指標ではないか?だからこそ「不倫は文化」になったともいえるでしょう。

「みちならぬ行い」と深刻化することが姦通罪の廃止による女性の結婚制度離れをどれだけ食い止めたかは不明ですが、、不倫という言葉の狭義化は婚外の恋愛に一種のトレンディな「格調」を与えこそすれ、抑止につながったようには見えず、かえってそこに恋愛のオルタナティブなマーケットを造ってしまった感はあります。しかし、一方で言葉の既存の中心的用途はあっという間に失われました。

ポリアモリーを肯定するスタンスという事もありますが、自分は荻上さんは、婚外恋愛、性関係にあったこと自体で謝「罪」すべきであるとは思いません。法的にも「罪」ではない事はあきらかですし。むしろ、法律に抵触するとすればこのスクープを報じた文春側について私信である筈のLINEのやり取りを公開をしたことにその非があるという声も上がってます。

Livedoor記事文面から判断する限りでは彼の謝罪は、妻、家族と相手の女性、そして周囲に向けられたものという事で少なくともSMAP謝罪のようにどこに謝っているのかわからないというフラストレーションは記事を読んでも起きなかったのですが、それでもこの謝罪がメディアを通じて行われたことに考える部分が生じました。

この問題を語るほぼすべてのメディアがチキさんを表現するのに「気鋭の論客(評論家)」という見事な紋切り表現をつかっていること、また、TV,ラジオなどの視聴者とみられるツイアカなどが彼の(多分清廉、知的な)イメージの失墜についてやはり落胆の声を漏らしていること。

これはチキさん自身放送で少し違和感があるとぼやいていたことですが、講演会などで最近、なにか芸能人のような紹介のされ方や反応が来てしまうといったことに思い当りました。そして多少飛躍した比較ではあると思いますが、それはショーンKさんの学歴詐称問題があったとき、彼の姿がメディアと観客に「造られた」ものであったがゆえに彼は消えてゆくしかなかったという経緯を彷彿させるものがあります。

もちろんショーンさんの「華麗さ」と比べると、荻上さんは時に少しフライング気味ではあるものの、人懐こくさくさくとした語りが特徴です。でもインタビュー時には切っ先の鋭い質問を次々くり出し、返しも的確です。なかでも題材を毎回きちんと事前勉強し、検証しながらわかりやすく解説する態度は、本当に地に足がついている印象。取材も丁寧な印象ですし、なにより資料にあたってから物申す学究的な態度、基本が見えるのが好きです。まあ私にとってはいつもラジオを聴いたり、書籍を読んだりしているので、彼のいうような紋切イメージはあまりないのですが、それでも彼自身が違和感を感じ始めるほどにはメディアによって彼のイメージの構築と固定化が図られていた、ということはあるのではないか。そしてそれは他でもな「アイドル化(そして社会学上のの他者化)」ではないか、と思うのです。

「アイドル化」してしまった人々が「みちならぬ」と一旦断罪されたなら、すべて泡のように消えればいいのか?まるで最初から存在しなかったかのように?*1

どのような行いであっても凡て許されるわけではないというのは確かなことですが、モラルも法律も人間が造るものである以上、必ずバイアスを含みます。例えばセックスワーカーが蔑むべき職業だというのも一つのバイアスでしかないのと同様、一夫一婦制も恋愛結婚制度も必ずしも普遍的なものではない。売春が合法な地域も違法な国もありますし、違法であっても内容は売春と変わらない性サービスを提供するところも日本はじめ多くあります。違法にしているからモラルが高い、とは言い切れない。そして見方をかえれば、主婦も「特定の相手とのセックスワーク+家政婦」とみることができます。そしてアイドル化とは、バイアスがまるで普遍的なもののように強く固定化している状態と私は見ます。それをほどいていくのは、まずは我々の認識の変化ではないでしょうか。

荻上チキ氏を知らない方もあまりいないでしょうが、荻上さんがパーソナリティを務めるSession22、最近一番面白かった「日本会議」の回をこちらに貼らせて頂きます。


22 青木 理×山口智美×荻上チキ「日本会議」2016.06.16

*1:そんなのは、トン分裂騒動の時に、というかグループの初期からファンは嫌というほど見たのではないですか?どちらが先だとかは言いません。分裂後はなにせなにかがあるごとに「別グループだから」とかいう言説。要は自分の思い通りにならない「像」は「視界から消えてほしい」という言説を。もちろん今回のユチョンさんの件でも早々に、ファン(JYJギャラリー)から排斥されるという事態が起こっていますし、企画会社、芸能界そのものが彼らが生身ではないかのように扱う。ユチョンさんのファンは彼の存在が芸能界から消えてしまうことを大変に危惧されていることと思います。

ファンタジーの棲まう場所(Stigma 2016の続きです。)

引き続きユチョンさんの暴行事案ですが、もしも暴行が事実であって立証されたなら、私が擁護しようがしまいが(擁護したいという心情はともかく)法的な処分が下されるでしょう。ただ、それと彼の音楽や演技の才能、これまでの実績には別の評価が下されることを望みます。*1

ただ、擁護しようとして、告訴した女性達を叩いている女性達の姿は、元慰安婦を叩く保守系女性団体の姿にも重なりますし、またそこに便乗する保守系ツイッタラーなどをみるにつけ、メディアのセンセーショナリズムと同じくらい気分が悪くなりました。自分自身の擁護したい気持ちに対しても、すなわち内在化されたミソジニーなんですが、その強力さや悪質さを感じるとともにミソジニーの具体的な発露として、弱者が別の弱者を攻撃する姿はやりきれない。*2フェミニストであろうが、人種差別撤廃論者であろうが、ミソジニーや弱者フォビア、ホモフォビアなどから完全に逃れられる人はまれでしょう。

ユチョンさんの闇の部分、実際多くの方が感知はしていたのではないかなとも思います。少なくとも私はそうです。*3 アイドルであれば公にすることで商品価値の下がるようないわゆる「公序良俗」に反する部分とか、商売にならない部分は通常切り捨てられているものですが、例えば男性ジェンダーと暴力性は切っても切れない関係にあり、やはり顔を出しがちなものです。ユチョンさんだけではないですよ、他の芸能人はもちろん、残り4人のメンバーについてもアンテナが動く部分、大なり小なり有ります。

アイドルである誰それを「信じている」という言説がありますが、私はそれらの闇に属する部分が「ない」という風には「信じられない」。最初から全く信じていないどころか、常日ごろ、その「信じる」という言葉には疑問を生ぜざるを得ないと思ってきました。アイドルという文脈でそれを使うことは、相手(アイドル)が自分の管理下にあって思い通りになるという確認に過ぎないと思うからです。そのうえで「信じられなくなった」ら、あからさまに捨てようとしたり、攻撃する対象につかうというファンからアンチへの遷移にはそれをするファンの承認欲求の激しさや、ストーカー的心性をあきらかに見てしまいます。(キリスト教的な神への信仰とアイドル信仰を分けるものは、だいたいそのあたりだと思っていますが、、、混然としている向きもあるかもしれませんね。)

翻って韓流スターとしての彼の責任の取り方を問うことはファンにとってこそ今後も彼を応援していくうえで、きっと大切なことだと思います。

調子にのってただただ断罪するだけのメディアやSNSにはうんざりしますし、どうやっても、意地悪なからかいやアンチの罵り等は消えないでしょうが、なぜこういったことが起きてしまうのか理解するには、問題の根底にアクセスすることも必要かもしれません。最近は「フーゾク」の報道にも受け手がなれたというのか、橋下さんのようにフーゾクは必要とか皆納得しているのかそれはわからないのですが、あえて疑問視をしない報道の傾向が気にかかります。が、3年ほど前のこの記事は、風俗関係の職につく女性の現実をよく照らしていると思います。

blogos.com

この中で荻上チキさんは、ワリキリという形態の性サービスに従事する女の子の貧困や学歴の低さ、家族の問題や精神疾患という就業の理由ともに、なぜ男性たちがワリキリに惹かれるのか、性欲の解消だけではないその理由を語っていました。そのままユチョンさんに当てはめようとは思いませんし、業態がかなり違うので異る部分は多いでしょう。が、確かに「彼のようにモテる男性がなぜ?」という声を耳にすることは多いです。チキさんは、

"独特のすさんだ空気が癖になる人もいる"

と指摘し、自身もそれがいやではなかったと語っています。

振り返って報道の切れ端を拾い集めてみると、カメラにあれほど愛されていると思われたユチョンさんがなぜカメラのない場所を「性」の場所に選んだのか?サセンの設置したカメラを壁を這うように避けて歩いていた映像がもう一度頭をよぎりました。そして思いました。これはまるで、「呪文」のPVのようではないか?

性と暴力にからめとられてしまう彼の姿を現実に見たくはなかったです。でも彼とて我々と同じ現実を生きているわけです。そして我々の現実を構築している社会の屋台骨にこそそういった病理としてのファンタジーが宿っているのではないか、と感じています。

 

*1:彼ら5人が日本型のアイドルと一線を画した違いは彼らの本物の才能や技術にあったはずです。

*2:これは、フロリダの銃撃事件などにも共通します。

*3:「心の闇」ではないですよ?スポットライトの当たらない部分という意味です。誰にでもあるでしょ?秘匿している部分が。

Stigma 2016-アイドルの終わり

4年前にこんな記事を書きました。


ravensk.hatenablog.com

ユチョンさんの事件に関する報道は、アメリカの韓国系メディアでも扱っていますが、日本や韓国でのようにマスメディアで垂れ流しってことは全く無いです。よくも悪くも文化商品としてのK-POPはサブカルですから。

この件に関して今の時点で私が言いたいことは以下のようになります。

まず事件の是非とは別に私がユチョンさんが好きなことは変わりがありません。

第二に、事件の是非を考えるときに、このような職業、ビジネスカテゴリの存在はとりあえず韓国の重厚な「家父長制」が基盤になっているだろうという事。女性たちの自律的な就業意思、はもちろん存在し尊重もされるべきですが、その背後には女の性(処女性、美醜、若さなど)を商品化する社会のシステムがあるという事です。別にこれは韓国に限ったことでは有りませんし、「国家」はいろいろな意味で「性」を管理したがるものですよね、社畜であれ、家畜であれ。。。家父長制が日本軍の慰安婦制度を後押しする結果になったのも、それが「娘」を主要交易品、商品としたからという部分があるでしょう。*1現代において、先進国では少子化、一人っ子の増加が男の子の優位性を幾分奪い、また大戦への全世界的な反省から性別や人種間の不平等を縮小しようという現代の国際的機運はありますが、それであってもいまだに性サービスは女性や若年層への搾取という様態から完全に脱却しているわけではなく、常にそこには搾取する側としての顧客、雇用主、ピンプなどの存在がある。

しかし、ここまで書けば賢い読者諸姉はお気づきだと思われますが、この構図は「女、娘」を芸能人に置き換え、雇用主やピンプを芸能事務所やメディア、ファンに置き換えても成り立ちます。*2

そして搾取は芸能というジャンルの中でも「アイドル」に対して最も過度に行われる。次々に起こったアイドル(あるいはイメージの偶像化を多分に伴う女性シンガー)へのストーカー的襲撃、アイドルタレントの不倫に伴うメディアの対応、SNSでの排斥等はその一面を見せているのではないでしょうか。

アイドルという存在が疑似恋愛対象にとどまるのかそうでなくなるのかというミクロな視点をさておいても、大きな理由としてははそれだけアイドルは東アジアの社会全体の持つヘテロロマンチックラブ(という物語)と家父長制(というシステム)にからめとられた存在であるからではないかと思います。アイドルを供給するほうも享受する側も、異性と出会い恋に落ち、結婚し、生殖することが人間の最高の幸せでありかつ義務であって、美しさは最大の力であり、性的オーガズムは必要かつ正義であり、それらを得ていないからには人間的に何かしらの欠陥があるという風な共同幻想(あるいは強迫といっていいかもしれない)を持っている。

疑似恋愛対象であるばかりではなく、そんなふうに社会が求める理想の恋愛や結婚、そのうえ家族(という生殖システム)を体現すべきなのがアイドルであるとすれば、もう彼らにアイドルでいてほしくない、というか、自分が彼らをアイドル視するところからやめようか、と思い始めています。

貼り付けた過去記事を書いた時には、John Mayerの当該の曲が好きであり、彼の曲のミソジニー論議を彼の社会「描写」への反発、リアクションとして受け止めていた私ですが、最近、そうですね、具体的には例えばSMAP騒動を経て、やはり社会を変えるには描写するだけではいけないのではないか、という風に認識が変化してきました。

例えばSMAPがそれぞれ固有の人間である事をSMAPという形に固執する形で超えようとするなら、それはどこかにやはりひずみを産むのではないか?と思うようになったんですね。SMAPという名前が生きていたとしても、ひとりひとりが生きていないのなら、それはやはり自分にとって「SMAPの死」を意味するのです。

そして「アイドルの解体」、に私は取り組んでみようと思っていますがこれは私含む腐女子の皆さんの好きなはずの「男の絆」の解体を意味します。(これは女性アイドルでも男性アイドルでも共通です。)それでも、いまの自分が到達できた認識の地点として取り組みたいと思っているのです。*3

参照:

「アイドルの読み方-」混乱する「語り」を問う 香月孝史 青弓社

「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う (青弓社ライブラリー)

「世界に一つだけの花」の意味ーSMAPが教えてくれたこと 小野登志郎 太田出版

「世界に一つだけの花」の意味―SMAPが教えてくれたこと

「タナトスの子供たち」過剰適応の生態学 中島梓 ちくま文庫

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

 

*1:今回の騒動と重ね合わせる方が多いのですが、気になるのは「私のお爺ちゃんはレイピストではない」という慰安婦否定派の主張とユチョンは潔白という主張がどうもダブって見えてしまう事です。女性たちを売春婦と侮蔑するのも慰安婦否定派の方々の典型表現と合致します。どちらにしろこういったサービスの利用をしていないという潔白まではありえないのではないかと思いますが、気にすべき点、そしてそれこそ慰安婦報道の歴史とも重なる部分でもあると思っているのはまたしてもメディアがセンセーショナリズムで動いている事です。過剰に露悪的な演出を施した記事を拡散する事はどの当事者にとっても尊厳を傷つけられる事になり、事実に対する認知を歪める事になります。戦地に向かわせられた日本軍の兵士誰もが「民族的に野蛮」であったという言説が正確とは言えないのと同様「慰安婦というのは嘘つきの売春婦である」という議論は的を得ていない。おかしいのです。両者は両方ともが異なった意味合いに於いて戦時、搾取されていた筈ですがお互いへの攻撃(弱者間の利害の衝突、ヘイト)によって国家による性のコントロールや、植民地主義という実際に搾取していた側が後景に隠されてしまっている。

*2:実質この報道によって一番利益を得ているのはいったいどこなのかな?。自称「アンチではない」と言われる一群の方々が「アイドルとしてはあ~終わりよね」的に楽しくて仕方がない風につづられているのを見るにつけ、まあアイドル自体が「終わり」にさしかかっているとは想像もしないのかな?と思ったりします。そしてこういう物言いは、風俗嬢や売春婦を侮蔑する時の「落ちたら終わり」的な物言いと非常に似通っていますね。

*3:アイドルの終わり、は間違っても耐久消費財(商品)として彼らを買い、消費した挙句に「捨てる」という意味ではありませんし、アイドルではない「俳優」やら「ミュージシャン」へ鞍替えを行うという事でももちろんありません。そしてパフォーマンスを行う人にたいしてのファンタジーの全てを手放す、という事でもありません。その辺は誤解されないようお願いいたします。。。。