夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

可視化するジェンダー化。ベッキーと東アジア的「アイドル/タレント」について考えてみました。

読者様こんにちは。

読者でないあなた様もこんにちは。(笑)

 

はてなに引っ越してもうすぐ一年経ちます。そのきっかけなどをつらつらと振り返ってました。

 

ブログとは手紙なのだ、という目線のことをどこかでみかけ、これだと思った次第でして。わたしにとっては、このブログは見知らぬ「あなた様」に対する手紙に違いない。ただし、読み手が主体の手紙ですが。ブログは日記だとはかねてから語源的にも言われているのですが、自分だけに向けて書くならネットで公開する必要も無いことです。(日記と銘打てるような日数書いてない事実も。苦笑)ただ、なにがなんでも拍手やコメントを得たいか?と言われれば、そのような時期も確かにいくらかの期間はあったのですが、ネット上の不特定多数の「承認」を追いかけ続ける「ため」に書いているのかと自問すれば「そうでもない」というしかない。とすれば、やはり備忘録を兼ねた、たぶん数少ないであろう私の文を気に入っていただいている「あなた様」(あるいは嫌っているが気になってしかたない)への、私からの手紙というのが合っているような気がします。

ネットが公共の場だというのは今更言うまでもない、にべもない事実ですが、毎回「自分は対面して言えないようなことはうんぬん。。」とか題目を唱えつつ書くのも性に合わず。むしろ対面したら言えないような気恥ずかしいことでも手紙なら書けるってそういうこと無いですか?

こういうのは、書き言葉話し言葉が一体化してしまった現在のSNSなどでの類型化した「対面で言えないことは書いてはいけない言論マナー論議」等からはすっぽり抜け落ちてしまうのかな?そういう部分はもう別に論議されなくてよくて、匿名性の悪弊だけ言ってればいいっていうのもシンプルすぎる気がしますけど。もし、「増田」が無かったら「保育園落ちた」という、あの面白いブログも無かったんじゃない?あれはやっぱり面白かったよ。誰がなんて言っても( ´∀` ) ねえ、世の中社畜と煩いけど、家畜も居るんですよ、意思とは裏腹に。「ああ、社畜になってみたい」みたいな?

 

対面してようがしてまいが、言葉で誰かしらを傷つける可能性は実は言葉を発する人物の人格をとわず、どこにでも転がってます。言葉とはそのようなもの(私がゲスであるのももちろん認めますが。)肝要なのはネットのその先にいるのは大概はロボットではなくて人間だって事ではないですか?今だってPCに向かってはいるけどPCに話しかけてるわけではないのでして(Tayとか、Siriとか除くww)。ネット(つまりヴァーチャル)が大事か、現実の人間関係が大事かという世界を二つに切り分けるような議論自体がもはや意味を失っているなあって思うんですよね。だって家族や旧来の友人といった現実の人間関係も今やネット上でも展開しているわけですから。

 

これからはネットの匿名性ではなく透明性がその特徴をもっとクリアに表してくるのではないかと思っています。ってのは、子供たちを観察してて感じたのですが、彼ら彼女らのネットの使い方は、なんだかんだで匿名前提はない、というか匿名とか実名をうんぬんしていない。。。むしろ、出版やTVといったオールドメディアではいまだに保たれている「匿名性」がネットの初期にマインドとして持ち込まれていたのが(例えばペンネーム⇒ハンドルネームとか)今はもともとのネットの特徴である透明性のほうの特徴があらわになってきているんじゃないかなと思います。もちろん、それに伴ってプライバシーが露わになるし、その危険性という観点も必要です。「匿名性は絶対悪ではない。」というのは周知でしょうが、むしろ、気になってるのは「オーバーシェアリング」の態様で、ソーシャルメディアを使うこと。承認欲求は誰しもあると思いますが、「私が」「俺が」と繰り返される画面を眺めているといたたまれない気持ちになります。しかも、その多くがそれこそ匿名です。

 

と、いうことで‘。。。話はちょっと逸れますが、ベッキーさんの問題です。

 

今回のいわゆる「不倫」そのものではなくて、ベッキーという存在、それからほかの「タレント」と呼ばれうるすべての人々について考えたことなのですが。。。

 

英紙のGuardianなどは今回のいわゆるベッキーたたきを「セクシズム」と表現していて、また多くの方がそれを「女性差別」と解釈していたようです。*1 

間違いとは言えませんが、単に「女性差別」と捉えてしまうとほかに色々噴出している問題*2との関連付けが希薄になるな、と思いました。なかには、「主婦層」がベッキーたたきをしているのに、女性差別っていうのは違うだろ的な主張をしてる人もいましたし。そういう人は、「いわゆる主婦層」がいまや「女性差別」の中心勢力かもしれないことに気付いていない?

性別が女、の人もたくさん「女性差別」します。差別は社会のなかに規範や習慣として作り上げられているので、「それが差別なのかどうか」を常に吟味していないと老若男女を問わず、知らずにうっかり誰でもが参加してしまう可能性がありますし。そこに個人的な「意図」があるなしにかかわらず「差別」は存在しちゃうっつーか。

ということで、もう一度ベッキーさんを見てみますと、もう一人の「不倫」当事者、川谷さんと彼女との間にある「差」に気付きます。川谷さんにもかなりのバッシングがありますがそれによって彼の職業たる「音楽」が彼から奪われることは無い。

しかし、ベッキーさんの場合は職業としての位置が簡単に脅かされているように見えます。ここを性別だけによって見ようとするなら、まさに「女性差別」でしょう。でもたぶんそれ以前に、彼と彼女の職業の「違い」があるでしょう。彼はミュージシャン。では彼女は???「タレント」?タレントというと英語で「才能」の意味ですが、あかるくかわいく、元気よく礼儀正しいハーフ(清く正しく美しいと言い換えても可)、それ以外の「才能」はどうでしょう。色々こまごまと器用にできることは多そうだし、司会も上手です。彼女のことはいわゆる「不倫」を知った今でも好きですが、「タレント」という以外にいわゆる芸能としての職業に結び付くような歌や踊りや演技といった部分は見つけられない。確かにこのカテゴリには女性が圧倒的に多いことも確かですが、一方同じような種類としてここにたくさんの「アイドル」が含まれていることを銘記します。一応、歌や踊りという「才能」部分が申訳というか、付帯条項程度というか付加価値としては有るんですが、メインの価値は「清く正しく美しい」ことに尽きるでしょう。特に日本型のアイドルは歌も踊りも「別に」うまくなくても職業アイドルで居られます。しかもそこは男女関係ない。つまり。彼ら彼女らは能力でなく「属性」そのものが職業なわけです。

 

だからこそというのか、タレント、アイドルにとって「恋愛」特に不倫と呼ばれる類は職業を脅かす命取りになるということ。*3 確かにこれは「セクシズム」であるでしょう。ただし、物理的な性別によらないセクシズムといえるのではないでしょうか。もっと言えば、これはアイドルやタレントが社会という構造のなかで「女性化」(ジェンダー化、周縁化)していることも意味している。つまり、タレント、アイドルは「女」そのものが「職業」として機能しているということですね。主婦層に叩かれやすいというのも「そこ」なんじゃないですか?

 

日本や東アジアのアイドルやタレントが社会の不特定多数の価値観、モラルをはみ出さないように行動することを求められているのは周知の事実です。しかし「人間」、そうはいかないことも多々あります。が、川谷さんが批判やバッシングはあるものの「音楽」という職業分野で立っていることが可能なのは、過ちをおかすこともある「人間」としての最低限度の尊厳をミュージシャンであることによって担保されている、という風に見えます。翻って、ベッキーさんにはその担保がない。

でもこれがある意味で「特異」であることが英紙に指摘されてあらためて認知される。社会構造の中に隠れていて習慣化するゆえに見えにくいgender化がどのように機能しているのかが可視化したのが今回の件ではないでしょうか?なにもかにもをぶっ壊せ、という気はむろんありませんが、こういったあらかじめ差別を含んだ規範や習慣を見なおすことは重要なんじゃないかと思います。*4

 

*1:

Downfall of Japanese TV’s girl next door highlights wider industry sexism | World news | The Guardian

*2:SMAPとか、JYJ法だとか、おねえタレントのオブジェクト化、秋元康作詞問題、AV女優は強制か否か問題などなど。

*3:先日炎上した秋元康氏の作詞『アインシュタインよりディアナ・アグロン』が語るように、”女の子は恋が仕事”。そこではつまり女という属性が職業化してるわけですね。

*4:「不倫」は「倫ならぬ」と書きますが、そもそも一夫一婦制のハイパー異性恋愛結婚主義と装置のほうが、経年劣化の一途をたどっているんじゃないかとみることもできますしね。。。。せめて不倫とかそんな呼び方やめてもいいんじゃない?とも思うんです。

ポストSMAP時代の到来と芸能界のグローバル化についての小論:NCT、SJそして東方神起。

本当は論というほどのものではありません。多分私の文の特徴は論と感覚が入り乱れるところにあるのでしょうが、幾分か考えた結果、これで通すことにしました(笑)

さて。New Culture Technologyです。

この動画については東方神起方面からはあんまり反応が出てなかったようです。興味ないのかな?それとも時期的に東方神起とJYJの5人のうち4人までが兵役入りして休止期に入ってるせいもあるでしょうか。うるさ型がいないということで、このような内容の発表をするには最も良い時期といういい方もできるかもしれません。

動画にはグローバルkpopファンからいろいろコメントがつけられていますが、かなりの高率で、「怖い」「ビビる」「終末的」などという表現が並んでいます。スマン会長のカリスマオーラ(?)のせいなのか(笑)独裁者の面影を見ている人は結構多いようですが、でもなぜかそれが「ヒットラー」(!!!)だったりする。


SMTOWN: New Culture Technology, 2016

なぜ東条英機じゃないのよ??(笑笑)

っていうのも、スマン会長の「グローバル化」(あるいはおっしゃるところの韓流の真のローカライゼーション)の取り組みを見ている限りは照準はアジアですし、もっと言えばそのメインは中国。ちなみに比喩としていうなら、Westに対するEast「大東亜共栄圏」的なコンセプトでもあるというのが私の認識です。これは、今回の新しい”NCT”でより鮮明に打ち出されていますが、従来のカルチュラル・テクノロジーでも基本的に変わりません。「アジア」を保ったまま世界を取り込む、そんな感じです。西欧圏のティーンにとったら確かにそれは「終末的」と映るかもしれませんね。

基本はそれとして、ざっとかいつまめば、新しい戦略の主要ポイントはNCT(Neo Culture Technology)という新型ボーイズグループ(AKB、エビ男的な卒業あり、多地域活動在りの大所帯。メンバーの人数にこだわったり、絆を標榜しない縛りのゆるいグループコンセプトらしい。中国狙いでか、武術などがふんだんに振り付けに盛り込まれたMVが見られました)、SJが独自レーベルを持つ、EDM戦略(Skrillexとのコラボとか、、、笑)、音楽ラジオステーション(毎週新曲を1年52週に渡って配信)するというものらしいです。全体としては「インタラクティブ」(相互活性)をテーマにしているとのこと。

このカルチュラルテクノロジーにグローバル化は欠かせないポイントです(以前の記事でも書きましたけど。)民の移動、越境が地球規模で増えている事実がもたらすのは地域に限定されない「ローカル」文化の享受ということになりますが、文化を売る韓流には非常にそこが重要なのですね。

例を簡単にするために自分のことを言ってしまうと、例えば私はアメリカに住んでいますが、私にとっての「ローカル」とは、やはりごはんの文化であり、漫画であり、アイドル文化であったりします。輸送やネットの発達によりそういった自身の育った文化環境を異なった文化圏の中に持ち込み、享受することが非常に容易になり、そのことが逆に今住んでいる文化圏に次第に影響を及ぼしたり、逆に影響を受けたりということが起きる。そういうシナジーを指して複雑で魅力的な変化していくテクノロジーだとスマン会長はおっしゃってるわけですね。(彼に限らず、J-POP含む東アジアのポップ音楽の研究ではそういった移民文化の広がりとローカライゼーションの関係はよく指摘されています。)

実際どんな影響を受けたり、与えたりするのかというと、やはり私も北米に長いこと住んでいる関係でこちらの文化圏の影響も受けますから、音楽やアーティストに対してクリエイティビティ、オリジナル性を最重要視するという癖があったり、その一方、日本的な、それらが重要な意味を成さない「ヴァーチャル恋愛としてのアイドル文化」「ノベルティとしてのJ-POP文化」も自身のなかで受けいれているところが大きい。本来この二つ、音楽性(オリジナル性)とアイドル性(ノベルティ性)、は相いれないものだと思うのですが、自分の中で同居してしまっています。そしてこの New Culture Technologyですが、スマン会長によればキーワードはCasting, Training, Producing, and Marketingだそうです。これは言葉は英語ですが、掘り出し、仕込み、造り、披露目る、という、、、こてこての東アジアの芸能スタイルを明らかに継承しているのじゃないかと思います。そしてこの行為の主体は誰でしょう?

 

改めて問うてみましょう。 

『東方神起』とはこのような文脈の中で、一体なんであったのか?

一つの明確な答えが「文化商品」だと思います。*1

彼らがアイドルという「商品」であること、それはファンの方々がいちばん良くお分かりのことと思います。しかし、特に日本で「アイドルという職業」が江戸時代の家職制度のように捉えられてきた背景を考えるとき、芸能者が「人間・個人」の尊厳を持っていることを忘れている可能性を指摘しておきます。多分忘れているというよりは知っていても「言わぬが花」とする美意識かもしれません。大声で商品だ、などとは勿論言わない。

そして「花」は「人権」など主張してはいけない。

これは例えば次のような発言に端的に見られると思います。

アイドルを国会議員にするな!

自民党が参院比例で元SPEEDの今井絵理子を
擁立するという。
知名度があるし、子供が身障者だから、同情票も集まる
という魂胆だろう。
わしはこういう偽善的な感覚がすごく嫌いで、
むずがゆくてたまらない。

菊池桃子も子供が身障者だから、自民党の国民会議
とやらに招かれているらしいが、そこまでならいいが、
国会議員に立候補するのは止めてほしい。

権力者になれば、政策が違うと思えば、批判しなければ
ならなくなるし、今でもファン意識があるのに、
とことん失望してしまう。

権力者ならば、風刺漫画で、醜い顔に描くこともあり得る。
アイドルだって、内面の醜悪さを抉り出して漫画化
することは、当然出来る。
そういう辛いことをわしにさせないでほしい。
せめて菊池桃子は永遠のアイドルでいてほしい。 

最近の国会議員は、出会い系コンパみたいになっていて、
議員どうしで恋愛したり、結婚したり、育休したりし始める
ので、気色悪くてしょうがない。 

国民のため、公のために、働きたいというよりも、
婚活のために立候補してるんじゃないかと思ってしまう。
公人のくせに、私人の私利私欲を国会に
持ち込むんじゃないよ。

自民党はポピュリズムばっかりやるな!

*小林よしのり氏ブログより引用。

アイドル好きを自認される小林氏らしい文ですが、ここからよくわかる構造は今井絵理子氏が国会議員を「させられる」のであって彼女自身が「する」のではないこと。また菊池桃子氏については「会議に呼ばれる」までを線引きし、それを過ぎて自ら「立候補」することについてのダメ出しをされています。

つまりアイドルは「主体」であってはならない。

と、そのようにお見受けした次第です。

これを念頭に置いて今回のNCTを考えてみるとき「東方神起」分裂騒動が如何に今般のSMAP騒動と紐づけられるかが見えてきました。全く違う、別物だ、一緒に論じるなと言われる皆さんもおいででしょう。「別モノ」という言葉自体がもはや全てを語っているかもしれませんが、敢えて書いてみます。

まずは、この荻上チキさんのラジオ。矢野利裕さんのお話、全体的に大変楽しく拝聴したのですが、最後の10分ほど、ぽろっとこぼれる矢野さんの本音が気になる。私の感じていたこととあまりにも被ってしまったので、ネタばらしになりますが書き留めておきます。矢野さん、SMAPの従来的なアイドル路線からはちょっと外れた音楽、自由なスタイルを非常に愛していらした事がうかがえます。かっこいい人たちが「かっこ悪い」毎日を歌い「頑張りましょう」と歌いかける、そんなSMAPが好きだったのに、先日の解散報道からの公開処刑とも呼ばれたフジテレビでの「謝罪劇」。あんなものを見せられるくらいならいっそのこと「解散してしまえ!」と、思ったと。

 


22 矢野利裕×荻上チキ「音楽性から考えるSMAP」2016.02.08

 

私も同様に感じました。疑問が頭を巡りました。私もSMAPは好きだったんです。ゲロすると、デビュー時から見ていました。数々の楽しいバラエティが頭をぐるぐるしました。何故彼らが「謝罪」するのか?彼らがどんな罪を犯したと言うのか?そして私の好きだったSMAPは幻だったのか?SMAPをもってしても独立し「主体」となることが叶わない芸能界というのは、どういうところなのか? そして、SMAPという「商品」さえ、安定供給されるならファンはそれで満足なのか?

それが世界にたった一つの花なら、それは「世界にたった一つの造花」じゃないのか?

「物言わぬ花」本当にそれでいいの?

小野登志郎さんがかなり以前にSMAPについて書かれたこちらの本、大好きな本でした。「ナンバーワンではなく、オンリーワン」。その持つ意味を象徴したSMAPが社畜よろしく頭を垂れ、紋切りの謝罪を述べるところは正直見たくは無かったですね。たとえそれが待ち望んだ「本人からの言葉」であっても。ただ、そう思ってしまうのも彼らがいかなる意味においても[アイドル]だから、であり、私たちは「自由なSMAP」という幻想に浸かって居たかっただけかもしれません。こちらの本、SMAPが私達にとってどんな意味があったのか、今一度確認したい方は是非読んでみてください。

 

「世界に一つだけの花」の意味―SMAPが教えてくれたこと

「世界に一つだけの花」の意味―SMAPが教えてくれたこと

 

 

翻って東方神起は私にとっては非常に大切なポイントと感じる音楽におけるクリエイティビティという要素、同時に高いパフォーマンス性、花のような容姿とバラエティでも通用する日本型のアイドルらしさを兼ね備えた理想的な「商品」でした。しかし、それでもなおかつ私にはSMAPや嵐と言ったジャニーズのアイドルのほうが何歩も先を行っているのだという思い込みが在ったのです。*2 特に初期の頃の彼らには昭和から抜け出てきたような少しあか抜けないかわいらしさがにおいましたし。

分裂してから追い始めたわけですが、正直なところ分裂は、ファンを含め見ていて痛々しく、良いことと思う感覚はあまりありませんでした。ですが、気持ちが変わりました。あれは、痛くても必要な事だったなという方向に。それは、いま東方神起が「安定供給」されているからでもなければ、JYJが完全に自由になったとかいうことでもない。2をみても3を見ても不自由さの感じられる彼らがそれなりに分裂の傷を負いながらも、それでもすでにSMAPのはるか先を走っていたことにようやく気付いたからです。

松谷宗一郎さんの記事をお読みください。(もう読んだかw)

bylines.news.yahoo.co.jp

少なくとも、今回のSMエンターテインメントの方向転換を見れば、どれだけ東方神起、またその後続グループの脱退、訴訟劇が影響しているか推し量ることはできる。人工的に編成されたグループであっても絆を保ち続けられる場合もあり、そうでない場合もありましょう。でも、えてしてそれは難しい。そしてそれを「売り」にすることには限界がある。だからAKB方式を入れ、SMAP同様にメンバーの自由度が高く、マネさんのキャラもたっていると噂のSJに独自のレーベルを持たせる。しかし、AKB方式が社畜システム(もっと言えば芸者置屋)と大差ないシステムであることを考えれば、今までよりもさらにひどい状況が生まれる可能性もあります。一方SJにレーベルを持たせることは、彼らの自由度を上げて、いわば社内独立をさせ自己マネジメントの可能性を持たせることによって、ファンの歓心を買うことができる。イトゥクもSMAPに言及したところを見れば、私の推理も遠からずかもしれないですね。奏功するのかどうかはまだまだ予断を許しませんが。

また絆なら、お仕着せに頼らずとも「ケリョンデの奇跡」によってグループ、芸能社という縛りのないところでも存在することを確認したファンは多くなりつつあるでしょう。*3 逆に、仲良しを演じていただくこと、それを鑑賞することに無理をかんじているペン(個人ペンのみなさん)も多くなってきていらっしゃる事でしょう。

人間ですので。

 東方神起はアジア的な文化価値、優れたマーケティング理論、経営ストラテジーの証左であり、アジアの「徳」の象徴でもある。しかしどのように優れた市場論理に支えられた、かつ素晴らしい芸能文化であったとしても、それを行うのは人間です。人間に対する最低限度の尊厳は常に払われねばならず、その払い方は学ばねばならない、ということ。私たちファンも芸能各社もです。それが「ポストSMAP」のアジアの芸能界の必須事項ではないか、今、そう思っています。

90年代、アジアでも高まる「人権」の機運に対しアジア的な価値と相いれないと文化相対主義を主張し「文化は運命」といったシンガポール建国の父イ・クアンユーに対し、「文化は運命ではない」と反論して見せたのはユノさんの故郷光州の名士、金大中でしたよね。

以下参照文献:

Jung, S. (2010). Bae Yong-Joon, Soft Masculinity, and Japanese Fans: Our Past Is in Your Present Body. Hong Kong University Press.

Zakaria, F., & Yew, L. K. (1994). Culture Is Destiny: A Conversation with Lee Kuan Yew. Foreign Affairs, (2). 109.

 

*1:この部分は後でもっとどんな「文化」をどこに、誰に伝えているのか詳しく書いてみたいと思っています。

*2:ここは上野千鶴子先生が韓流に対して指摘する「優劣意識から逃れられない」部分でしょう。資料に挙げてありますが、「あなたの現在が、私たちの過去」というような感覚はとくに高齢の韓流やK-POPのファンに付きまとう印象があります。

*3:ユンジェペンなんかは典型的ですよね。そしてユンジェ本人たちのお仕事、とユンジェペンのお仕事、それこそ非常に「インタラクティブ」じゃないでしょうか?

ユンジェの力学-Madam ButterflyのピンクのB。

お嫁ちゃんの新しいアルバムのタイトルに仰天しています、れーべんでございます。嫁という言葉を不用意に使うなという声もジェンダー方面からはあるでしょうが、私は結構好きです、響きが。意味づけはまあ、変えられますし?

なんたってあーた『NO.X』っすよ?

エックスとは英語で俗語的な使い方で「元」を表すというのは、日本ではもう周知されてますでしょうか? My ex. is bastard.と言えば あたしの元カレはくそみたいな奴、となりますし、離婚してればエックスとは元夫、元妻の事を指します。

それをNoと否定とな(笑)現在形ですか、そーですか、わかったよっ!!*1

しかも、もひとつは「元メン」と言われ続けることに対する何らかの意思表示なのかもと勘ぐれば勘ぐるほど面白く。。 (これも現在形か?とか言ったらどっかから吹き矢でも飛んできそうですがw)

更にこの音源のジャケットは迷図のような図形モチーフ。これを見ますと、No Exit(出口のない)迷路に迷い込まされた私たちファンの事のようにも思えます。手術を理由にブログお休みしてましたが、やっとこの出口のない術後後遺症から解放されそうなあたしに別の迷路に戻れってか?www ただし図形自体は出口だらけ。「いいよ出てっても」といういぢわるなジェジュンさんのほほえみが見える気も。(大体、迷い込まされたとか言ってますが、アイドルAddictionなんて、自分で自分をそういう状態にしたいからというのと市場経済のシナリオががっぷり四つに組んでなってるんですからね。。。苦笑)

No.X

No.X

  • Kim Jae Joong
  • K-Pop
  • USD 11.99

さて先日はユンホさんの素晴らしい雄っぱいについて書かせていただきましたので、今日はジェジュンさんについてです。先日の記事は二村ヒトシさん、金田淳子先生、岡田育さんのこちらの本を参照させて頂きました。こちらの本では、BLでの男の乳についての扱いから、不要物から新たな快楽の可能性としての変貌を遂げつつある男性の乳についての議論が熱かったです。ワタクシの記事も貼っておきます。

オトコのカラダはキモチいい (ダ・ヴィンチBOOKS)

オトコのカラダはキモチいい (ダ・ヴィンチBOOKS)

ravensk.hatenablog.com

今日は最近出ました、サンキュータツオ先生の本を参考にしてみたいと思います。なにが面白いって、やっぱり私としては自分の「腐女子論」と重なる部分でした。数年前からブログで「腐女子メガネ」の存在を書いてきたわけですが、タツオ先生がBL眼鏡と言ってらっしゃる事と恐れながらおんなじ事だと存じます。やおい文化とイヴ・コソフスキーが示す方向と同列です。メガネをかけることによって見えてくる「モノ」がある。ってことで、そのメガネで見えるものが問題ですが私はこれはジェンダーやセクシュアリティなど社会の構造とともに「欲望を可視化すること」だとおもっているのですが?

俺たちのBL論

俺たちのBL論

比較論的な入り方をしてみます。ユンホさんのおっぱいですが、先日も書きました様に「Bカップ」というサイズが強調されてます。ふくよか、とかね?ファンの皆様も表現される由。

本人もそれは知ってるらしく、海での撮影でも水から出なかったり、痩せていらした昔は上半身よく脱いでらしたのが、最近はパッタリご無沙汰。恥ずかしいとインタビューでも語ってて、腹に棲む魚ポニョ、と同時に鉄壁の守り態勢ですけど、ファンは服着てても頓着無くぐいぐい鑑賞してますわね。むしろその含羞こそあはれなりけりって???痩せてた頃に比べ、最近お乳の躍進により寧ろ股関注目率下がったかもよね?相対的には、という感じもなきにしもあらずなゆんほさんですが、これは彼が「おっぱい」という自らの体の一部を「股間」に比べ客体化できないでいること、その「もてあまし感」「所在のない感じ」を含めてファンが楽しんでしまっている、という事かもしれません。いや、股間はそれに比べれば、男の主体としてのシンボル化、客体化がシンプルにできますもの。その昔ソロ曲「HoneyFunnyBunny」なんて「股間祭り」と呼ばれてましたし。

体のパーツを鑑賞されること自体はアイドルとして普通であり視線を受け止めることも通常モードでしょうが、ことそれが「乳」となれば相応の煩悶が出るのは男性として当然いえば当然だと思います。アイドルという見られる業界においてさえ男性アイドルには見られることを意識することがない部分、でしたから、長いこと「ソコ」は。つまり発達した胸筋、厚い胸板とかに対する目線はあったにせよ、それは快楽を象徴するというよりは「男らしさ」の一部として存在してたわけですよね?無論「母乳」とかじゃなく(笑)。

さらにこれを「恥ずかしがる事」まで鑑賞されちゃうっていう最近の鑑賞方法自体は、まあ、言っちゃったらモロに女性アイドルまたはAV女優の鑑賞方法と同列になってきていると申せましょう。しかしながらユンホさんの乳は女に例えるなら、しろうと娘か地女なわけです。ふくよかとか?だからか、自分的にはちょっと引く、ユンホ乳については(笑)。ギルティ・プレジャーですよね。でもまあ、今後目覚めるってこともあるのかなあ??どうでしょう???好きですけどね、男のセクシュアリティーに女性的な部分が生じるというゆらぎ現象自体はとってもww

さてここで、ジェジュンさんのB地区への向き合い方を見てみましょう。

脱ぐ。見せる。時々きわどいお洋服で隠し。。。つつも見せてます(笑)ほんで自分で自分の乳首に言及しては「はじゅかっし」(!)とかさ?

しかもそのブツときたら「どこの半玉ですか?」というくらいの小っちゃくて色素の薄い桜色といった代物なんですよね??? ユノさんの乳と対照的にジェジュンさんの作りこまれた「処女」感よ。。*2その体が問題で、顔はまあ、彼よりきれいなコはいるっちゃいると思うんですけど、体のほうがかなり特別かなっと思われるんですね。

つまりジェジュンさんのチクビはプロフェッショナルな処女性を孕んでいる。

有名なジャック・ラカンの「欲望は他者の欲望」*3という言葉が頭をよぎりまくりますが、まさに「欲望される身体」を絵にかいたような。。。。??

いやいや、おっとこなんですけどね!!ジェジュンさん! とてもキレイな胸筋も(恒例ガリガリ君になってなければ)ついてるし、現在は軍隊行っちゃってますます、ごっつい筋肉盛り盛りちうですし? なのにどうしてか醸しだされる「乙女」感。。。

一つにはきっと長いこと「処女のアイコン」とされてきた「桜色」や「色素の薄い」お肌のコンディションやら、柳のような細腰という「男性から欲望される」「女子のなりたい(エロい)体」としての私たちに刷り込まれた表象が彼の「男性の体」のなかに存在してしまっているということが有るんでは無いか。まさに「有り難い」、存在することが難しいものとして。でも同時にジェンダーの揺らぎ、境界をあいまいにさせる体、としても「有り難い」のじゃないかと思います。

さらに腐女子メガネをかけるとそこいらへんが、「ユンホの欲望」(ここが結構ユンジェペンに限定じゃないところも怖いのですが。。笑)などという形で具現化して見えてきたりするわけですね。そして、彼は私たちの「視線」をたぶん知っていますので自分の体を客体視することにやぶさかではない。「さあ見て」とばかりに進んで体を差し出す。ホログラムだろうが、何だろうが。。。そうホログラムって!つまり、私たちの「欲望」がファンタジーであること、しかし欲望自体はリアルに私たちから生じている事を知るには最適のメディアかもしれません。(って、ユンジェペン垂涎の絵師だめまんさんのツイ見て思いついたんですけどもw 以下参照)

つまり、ジェジュンさんは「欲望される体」(美乳、美腰)と腐女子眼鏡的視線(欲望を見る視線)をどうやら同時にお持ちのようだ。。。というのが今夜私の言いたかった大半の事です。すんません。それって彼が本当にファンと近い目線を表現する側なのに持っているってことで、例えばそれはGACKTや西川貴教君などにも共通するポイントですよね。でも、彼の場合に特徴的なのは「欲望する主体」が単にファンに放り投げられているのではなくユンホというパーフェクトな具象性をもった「主体」がパートナーとして用意されているということ。彼の欲望を通してファンはジェジュンを眺める。(しつこいですが、ここはユンジェペンおよびそうでない方でもそのように見える事が多々あるってことで!)

まるで欲望の追っかけっこですが(苦笑)

ユノを通して欲情する私たち、その上ユノを超やらしい目で見ている私たち。ホント神様我々をどうかお許しください。(病み上がったばっかなのにこんな記事書いちゃった。。。反省←)

*1:って、ツイなどほっつき歩いてましたら私の脳みそには最も適切なNO.が番号を示すという選択肢がどうやら欠けてしまっていたようです。だって、今までさんざん数字で来てるんで、もう飽和状態なんだけどw 今回もまた何やら数字的な意味もあるのかな?と思わせといて〜っていうジェジュンさんの策略って事は無いのかしらw

*2:参照:Rodrigues, S. n.d. "From vaginal exception to exceptional vagina: The biopolitics of female genital cosmetic surgery." Sexualities 15, no. 7: 778-794. 以前引用しましたが、処女感出すためにアソコの手術する事例の研究もあります。何のため?と言ったら、自分の為と答える女性は多い様ですが、それが欲望される対象であるから、という事は避けられない答えかと思います。

*3:つまり、人間は他の人々が欲しがるものを欲しがるという事ですが、これは人間の「欲望」が生物的な欲求とは切り離された形で非常に「社会的」に言語を媒介として形成されるという事と解釈しています。

F:f is for 'female'

まずは我々の女子力の鏡から。。。

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安定。。。

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結構人気高いよね?可愛いもの。。。

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マンネもいい線逝ってますw Boys Day!

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この時はびっくりしましたwwww

で、ユンホさんもキレイなんですよね。。。。普通に。ほら。。。

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だけど、やっぱ忘れちゃいけません、、、このお方を!

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そしてこの存在感!!!つっか、ひとり足りないけどww

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あんど。。。

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シャツから透けてますのは、、、皆様お馴染みオンマご尊顔www

つっかさ、、、、なんてってもfanがまず第一に女ですよね、、、fanと言えばこれ!

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レッドオーシャン。。。。

とくれば、これかな???

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オンマだから究極、こうなる???

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ママ、こっち食べさせます?(ホントなんなの、このMV...苦笑)。。

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以下”F”はForce、Faith、Fantasyと続く予定。ご愛顧下さいw

 お、そういや忘れてはいけないfemaleとしてfujoshiも有りますよね。腐女子ファンダムなくして、ここまでの人気が可能だったか?ねえ?うん。それは怪しい。ただそれがあまりに前に出すぎて、人のセクシュアリティにまで勝手に踏み込んだりするという事態にもなっちゃって、p禁の号令掛けるファンも無きにしもあらず。だがしかし時代は「同性どうしだから」けしからん、隠すべきだという事がそもそも差別的であっておかしいんではないのか?という方向です(多分)。先日もツイで盛り上ったばかりですけども。エロの扱いでは異性愛の方がむしろ量としてもっと大量に禁止したくなる内容のがいっぱいですからね〜。

「ユンジェの力学」、書きかけにしたままで手術を受けに参ります。。。

タイトルはね。。。「Madam ButterflyのピンクのB」ww どんなんじゃw

どなたかがつぶやいて下さったおかげですごい数の来訪者様に恵まれてしまい、恐縮しています。ブログをつけることは私における「エクリチュール・フェミニン」*1のようなもの。だから、理論的なことも感情のようなことも隔たらず並んでいます。ごちゃごちゃでも、これが自分なので、、、面白かったといっていただけますと大変うれしいです。でも放置プレイも別に嫌いではないですよw 

では、しばらく、お休みさせていただきますね~~(^^♪

*1: ブログによくファンの皆様がつけているタイトルが「徒然」です。 ペンに限ったことではないかもですけれど。結局このようにしてブログを書き続けていたら、それが「女のすなる」こと、その特色などが見えてきた気がしています。参照リンクのブログはフェミニンエクリチュールと、その周りについて、非常に面白く書かれていますので、ぜひお読みになってみてください。語義についてのウィキはパスしますが、必要なかたはそちらもご覧くださいませね。

1127夜『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ|松岡正剛の千夜千冊

F: f is for 'father'

あーーーいあむゆあふぁーざーーーーーーーー!!!!


Star Wars - Luke I am your father

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Daddy PSY CL HD [Eng Sub]

PSYの新曲「Daddy」のMVはかなり風刺が効いていますね。家父長制のモンスターみたいなイメージのある父権主義の東アジアの家族文化を逆手に取った表現。壁に浮かぶ「孝」の文字。英語ではfilial piety....Where did you get your body?の問い。現代っ子には「親からもらった」、などという価値観(特に日本?)は風前の灯じゃないかと思いますが、それでも「父」は「所有」を主張する?息子と父親とそのまた父親しかいない家族の食卓。。。次々と面白いシチュエーションが繰り広げられます。

ひとつ前の記事で言及した論文でR.I.P.と言われていたPSYですが、「江南スタイル」は彼自身のクリエイターとしての力で、Viralになったわけでも、それが足りないから「終わった」わけでもない。彼というキャラクターが北米の差別構造にぴったりとはまってしまったからこそ、ネット民によりネガティブな形で人気に火が付き、それがポジティブな形では受け入れられなかったからこそ終息せざるを得なかったのではないか。これは大昔にも書いたと思いますが、北米オーディエンスの限界でもありますし、ある意味で、日本における韓流と、流れをおなじくしているのではないかとも感じます。

でもPSY、めげてない(笑)


Your Father (30s) | Campbell’s #RealRealLife こちらは実在のご家庭が演じるキャンベルスープのCM。お父さん二人がなかよく息子とSTARWARS?

で、こちらは最新のStarWars


Star Wars: The Force Awakens Trailer (Official) 今回のスカイウォーカーはヒロイン(♀)ですね。

そういえばStar Wars も帝国と共和国でしたね〜‼︎

画像の出展は画像内、動画、画像ともに全てお借りしております。

「私」が東方神起を「消費」する理由(3)OはオリエントのO :帝国、共和国、韓流&非白人マスキュリニティ

続きです。(2)はこちらになります。

性や愛といったものを商品にしてしまって良いのかどうか?といったきわめて基本的で倫理的な疑問を不問にし たままで、世界は益々グローバル化(消費社会化)していきます。アイドルなどの感情労働、あるいはセックスワークにしても実はそれに従事する人の問題ではなく、その構造自体と消費するほうの問題でしょう。映像作品、CDやライブが滞りなく消費者に届けられる、それ自体は「資本主義の正義」と言えますが、それだけで良いのか?商品が存在したりしなかったりする事は商品の自己責任であるのか?その陰で生産過程や中間に搾取が起こっていないかどうか?

皮肉にもそういった「グローバル化」によって私たちは自分の「欲望」と向き合わざるを得ないという事が実はあるのではと思います。「女」とその「身体」は歴史的に交易され*1消費される客体である事が男性よりは圧倒的に多かった。おそらくはその経験ゆえに、いざ男性性が商品として消費してくれとばかりに目の前に差し出されたときに、立ち止まり躊躇ったり、考えたりする。それは「しなくてよいこと」なのかどうか?))

そもそも、私たちを動かす「欲望」の正体を私たちは本当に知っているのかどうか?という事も問題の一つです。それは目の前の肉体と交接したいという欲望か、自分の肉体に快楽を得たいという欲望か、それとも再生産(生殖)への欲望なのか?更に「商品」としての女性性がたどった歴史的な運命を見るとあまりいい気持になることがない。見られ、望まれ、収奪され、支配され、征服され、管理され、破壊される。「護られる」のは、敵に「財産」として収奪されることを防ぐためでしかないことが透けて見えてしまう。

実はグローバル化の基底にある「オリエント征服」*2、あるいはもっと新しい言い方で言うなら西欧のGlobal Southへの侵略や植民地支配は、男性による女性性の周縁化と重ねて見られることも多いです。*3

オリエントは肥沃な大地、しかし、一方で文明(理性/男性性)の届かない暗黒(自然)の領域ともみなされ、それが、女性性と重複するイメージでとらえられる。「女」に向かう「欲望」に「支配」や「征服」が入り込むのは近現代化のこうしたメカニズムの影響を無視して語ることはできないでしょう。むしろ、支配や征服、破壊自体が「欲望」であるかのようです。絶対強者である「白人男性」を除いたすべての属性、が「女性化」されるという事は腐女子用語でいうならば、攻めが一人だけの総受け状態のような世界、と言えるのかもしれません。そうすると、例えばアジア人のマスキュリニティなどはこの構造の中で「女」と同様に扱われ、征服されるという事になります。

このような「グローバル」消費とその構造に対する視点としてジェンダーやセクシュアリティの考えを入れていくことは、必要性の高いことだと感じています。資料用として買った本で、ソーシャルメディアを通じて拡散した2000年代からの韓流について書かれた論文集を紹介しておきます。

www.amazon.com

この本の中で、特におもしろかったというか、参照したい論文3本について覚え書きを以下に。

"Hallyu versus Hallyu-hwa: Cultural Phenomenon versus Institutional Campaign" JungBong Choi. p31-52.

  • 韓流というカテゴリーの境界線の問題ー韓国ポップカルチャーなら「何でも」この語に含まれるのでないとすれば、誰がそれを決め、基準がどこに設けられているのか?
  • 韓流モジュールーK-popからツーリズムまでカテゴリ間の多孔性、伸縮性
  • 文化現象としての韓流ー韓国人特有のまたその所有物というよりグローバルにルーツを持つ文化集合体としての姿

”Of the Fans, by the Fans, for the Fans:The JYJ Republic”. Seung-Ah Lee. p108-129.

  • 2009年の(当時)東方神起3人のSMエンターテインメント訴訟劇の経緯
  • アイドル「生産」システムおよびその契約形態のポップ・ナショナリズム(国粋主義)的色合い
  • TVXQからJYJへー若年サブカル層による「抵抗の場」(ファンが業界に反抗する) 
  • ファンが作り、ファンが享受する「JYJ共和国」*4
  • ファンによるConsumerismーマクロレベルの政治とミクロレベルの政治の連動

”R.I.P. Gangnam Style”.Brian Hu. P229-243.

  • 2012年のPSY現象はオフィシャルに「終結」ー「江南スタイル」への欲望は完全に死んだーーーその理由として。。。
  • 刹那的な、一過性の興奮(ウェディングソングに選ばれる率の高さ)
  • (特にネット上で)ステレオタイプのアジア人として周縁化されるー人種差別、メインストリームの白人/黒人音楽ではないもの
  • アジア人男性のマスキュリニティーを「もてない男」「安全パイ」とみなしたい欲望から生じた「人気」ではないかという疑念
  • 名誉の死を遂げた江南スタイル

 非白人女性性、男性性については前にもかきました。ご参照ください。

ravensk.hatenablog.com

そうこうしてるうちにこの間はJYJ法が韓国の国会を通過するという事が起こりました。

headlines.yahoo.co.jp

一方ではファンが分裂に分裂を重ねて箱押しが難しくなるなどの害があるわけですが、マイクロとマクロの政治が確かに交錯しているようです。

 

結論です。オリエンタリズムとは権力あるいは主体が「他者」を東あるいは南と想定してジェンダー化、対象化、商品化、無力化していくプロセスであるとすれば 「アジア人の中年の女」ははっきりと「他者」の位置にいる。でもその私たちが消費する男性性もまた同じ主体によって「他者化」されている。私は「私」がそれを消費する理由をそこに求めます。

アイドルを消費する事は慨然的であっても必然性はないと考えます。そして消費する側とされる側で単に物理的な性別が逆転している事では特段エクスキューズされないと感じるのです。逆に私たちは「消費させられている」。誰に?それは私達本人でもあるのですが、、、

ここからは、次のシリーズFでもっと感覚的に追っていきたいと思います。

Oにちなんだ新旧二つの動画。いずれも歌詞をよく読んでみると面白いです。


[Special Clip] XIA(준수) ___ OeO [ENG SUB]

 


東方神起 / "O" -正・反・合

 
オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

*1:ゲイル・ルービンxジュディス・バトラー。「性の交易」参照。

*2:オリエント化。エドワード・サイード、「オリエンタリズム」参照。女性についての言及はエレーヌ・シクスーなども参照しています。

*3:植民地主義というと「いつの時代の事いってんの?」的なしょうもないツッコミを受ける事はツイなどでは多いですが、植民地主義は大戦と共に終わったわけではなく、グローバル経済と共にネオコロニアリズムとして今も継続しています。またかつての宗主国はなんらかの形でかつての植民地への優位性を保持し第三世界を継続的に搾取し続けています。

*4:SMの「帝国」に相対する概念として考えると対照をなして面白い。最近の3人のグループとしての行き詰まり、ファンの個人ペン化含め、考えさせられる。そしてSMという帝国の看板は実は日本市場という別の「帝国」に支えられるものである事。(2)で書いてある田中東子さんの記事にも有るが消費を通した市民主義が共和国的と言えるとすれば、グローバル資本主義のネオコロニアルな性質とどの様に対峙するものか?女という「他者」が別の「他者」であるアイドルを買うという事の意味は?

「私」が東方神起を「消費」する理由。(2)

 続きです。(1)はこちらになります。

性はファンタジーであるとともにリアリティでも有ります。性的な消費、にはアイドルから地下アイドル、AV女優、キャバクラやホスト、風俗なども含まれるでしょう。音楽とはまた違った市場が重なってきます。性と音楽、舞踊などが被るのは昔からの事なのですが、かえって現代では切り離して考えようとする方が多そうです。一緒くたには考えたくないというか?珍しく過去記事「ポルノ化する音楽」にキモいというコメントいただきましたが…*1

そういった「類」、のものとして、「アイドル」を「買う」という事には、抵抗感を覚えるというのはひと昔前なら「女」(特に高齢の)には至極当たり前のことだった気がします。しかし、(1)に書いたように西森さんの記事からも読み込めますし、北原みのりさんの『さよなら、韓流』などを読んでも実感されますが、男性の性を「アイドル」という形態で消費することは、2000年代までに日本を筆頭に東アジアの女性に非常に一般化されました。

消費可能な「アイドル」が棚に並んでいるなら、単なる消費行動としてみればそれを買うことは消費者の「権利」と言えますし、構造的には男性アイドルも女性の商品化と消費と同列に捉えるしか無い。しかし、なぜか「女」が「性消費」の権利を行使しようとする時にまとわりつく気持ち悪さ、つまり言われるところの「罪悪感」はいまだ存在する。西森さんの書かれていた事のひとつはパフォーマンスするアイドル、つまり客体になる「男性」への敬意と尊重ということでした。確かに私も常々彼ら、アイドル一般、東方神起メンバーについても、「人間」だろう、とは感じるわけです。私も彼らも同じ人間のはずですし、勿論敬意をもって私たちはパフォーマンスを観覧したり、声に耳を傾けたりしているはずです。そして言ってしまえば、「トンペン」にはメンバーの「人格」や「パフォーマンス」を神聖視する傾向はとても強く、「尊敬」や「敬意」という言葉はあらゆるファンブログ、SNS等に溢れかえっている。でも彼らの身体性、「エロさ」といったものを同時に、そしてとても即物的に扱うフェティシズム*2も溢れかえって居る。

「私」は彼らを「モノ」として扱う消費行動の一端を確実に担っている。彼らの肉体を鑑賞し、その美しいイメージを利用して関係性を舞台上のファンサービス、FFなどで楽しむ、その目線のどれに敬意があってどれが敬意のないものか、くっきり線を引くことは可能なのでしょうか?例えば、女性アイドルの生き方に対して、「アイドルの実存」を見出す男性ファンもいたりします。で、そのような敬意をもっているならば、また、彼ら彼女らが尊敬に値するパフォーマーで有るならば、そういった即物的な鑑賞の目線を向けても彼らを傷つけることはないのだろうか?いったい、敬意やリスペクトという単語の氾濫は何らかのエクスキューズであるとして、それは足りているのか?彼らのお誕生日に聞く「産まれて来てくれて有難う」という言葉に感じる違和感はどうすればいいのだろう?

消費される「モノ」としての男性アイドルと、「主体的/能動的消費者」の前線を歩いてきた「女」。家電やブランド品、海外旅行、文化、芸術などなどを消費してきて、消費者としての地位を(つまり経済力/購買力)を確立した女が最終的に到達しようとしているのは性(あるいはケアや感情、人間そのもの)といった、今まで男性ジェンダーによってほぼ独占的に「造られ」所有され、管理されてきた分野なのかも知れません。「こんなことを研究したい」と私が相談した指導教授は日本の中年女性の消費傾向について、「なぜ靴やバッグではなくきれいな男の子なの?」と真面目に訝っていましたが。

先日読んだサイゾー8月号の田中東子さんによる記事「”選別”に身を投げ出す男性アイドルと消費社会の中で”権利行使”する女性たち」には、眼差す/眼差される事と消費、男性性の客体化による消費主体と客体の逆転現象が最近注目のアイドルエビダン(恵比寿学園男子部)を通して書かれて有りました。記事によればEBiDANというニュータイプのアイドルのあり方は「接触型」と言えそうで、韓流や2.5次元舞台俳優などに共通するプラットフォームをもっているようです。すなわち、消費者が「作っていく」タイプ。田中さんは、その様子を、

 

EBiDANのファンたちは舞台上のパフォーマンスに集中するよりも、ミックスと呼ばれるオタ芸やメンバーへのお約束的なコールをかけることに全力投球している..中略..ここではもはや、パフォーマンスの主導権は男性アイドルたちからファンの女性たちへと委ねられてさえいるようにも見える。

 

と描写し、かつては「見られる客体」であった女性たちが躊躇なく「見る主体」となってその場を占拠し始めていると分析されています。これはまた「消費すること」で「権利行使」をアイドルの上に行うことでもあり、しかしながら彼女は、女が「消費」を通してしか、「権利行使」できないのではないか?という疑問を最後に投げかけるのです。*3

私自身2000年代中盤以降、斎藤工さんなどいわゆる「テニミュ」俳優さんたちのファンダムに身をおいた経験もあり、韓流・K-popアイドルとファンとの関係性との共通点も個人的にだいぶ感じてきました。

東方神起のエピソードで、トンペンならだれでも知っているであろうモノに、彼らが日本で驚いたことの一つに観客が一緒に歌わずにきちんと着席したまま(一定の距離を保って)静かに聞く、といったことがあげられていたと思いますが、そういった「距離感」は外側からの韓流の流入(それも大きいとは思いますが)に限った現象ではなく、実は内側である日本のアイドル業界からも縮められて、どんどん無くなって来ているようです。上記の田中東子さんも文中で男性アイドルの売り方が女性アイドルのそれに似てきているという事を指摘されているのですが、私も東方神起のファンダムとAKBのファンダムに個人ファン化など共通項が少なからず見えるという形で認識しています。(また、そのファンダムはホモソーシャルと常に結びあったりネゴシエートしている事も。)

男性を商品として消費するという事で浮かんでくるもう一つの事例は2000年代中後期非常に盛んだったホストクラブの事です。こちらのホストドキュメンタリー映画 ジェイク・クレンネル監督の「The great happiness space:Tale of an Osaka love thief」が、その内実にかなり迫っていると思います。

youtu.be

*4

YouTubeで見られるようになったのは最近のようですが、通して見たいかたはDVDなりストリーミングできっちりとご覧ください。(このほかに必読と思われるのは中村うさぎさんの『愛と資本主義』です。)この映画ではホスト自身が自分を商品だと言い、女の子の夢を叶え、癒やしてやるのが仕事だと言います。ホストは女に選ばれる存在だと自ら認識しているし、映画を見ている方には「癒し」や「夢」という言葉で語られる幻想が売り買いされる模様が見えます。自らも接客業に従事する顧客の女性の多くも気づいているようにうかがえる。ではなぜホストクラブの顧客たる女性たちは「わかっていて」そのような幻想を買うのか?なぜ買いたいのか?

この映画を友人達(白人ミドルクラスの米国女性)に見せたとき、なぜ「日本人女性」は上記のような欲望(Desire)をもつのだろうか、なぜもっと簡単にセックスを買わないのか?「愛」の幻想を買わねばならないのはなぜか?というのが、彼女たちに共通した疑問でした。

もちろん一つ目の答えは(1)に書いたとおりに買うべき商品が「そこにあるから」でしょう。米国ではこういう業態はほぼ無いに等しいですし、「マジックマイク」のような男性ストリップは一般的とは言い難い。消費しようにもできません。*5二つ目は「できるから」。田中東子さんの記事でも言われていたのですが、「消費」の主役に躍り出た女が当然の権利として「すなる」ことのひとつに「性的消費」もあるのではないか?女が性的な欲望を持つことへのタブー感は、フェミニズムの進行とともに薄れてきました。男性が女性アイドルを性的に消費しているのは明らかで、そういった消費形態が消費社会を代弁するものであるならば、女だけがそれをしてはいけない、という事もおかしいし、男性が客体になってもおかしくない。事実、アイドル消費を含む関連分野と言える腐女子コンテンツの多くもそうした商品創造、消費構造を受容しています。

ファンが消費行動でクリエイターに対して圧力をかける事が可能なまでにその影響が大きいのが韓流や現在のアイドル消費の姿です。「ファンの欲望と妄想に寄り添うようなファンサービスが提供され」、「チョイスし快楽を得られる自由」を獲得した「女」、そして、それゆえそこに生まれる「消費への従属」との葛藤、消費に従属することからの脱却の難しさを田中さんは上記記事にて指摘しています。

どんなアイドルの姿がほしいのか、それはなるほど自由なチョイスです。彼らにそうなってもらうために「課金」する。そのようにアイドルを制御できる事に気づいた時に待っているのは中毒です。でも彼らをどんなに愛し、その生を感謝し、欲望しても、消費する以外に関係を持つことが不可能であるという事実は、選択の余地のないシングルチョイスです。すべてが消費可能な「商品」となる社会(つまり、私たちが生きている現代、資本主義社会の事ですが)においては「愛」とは「フェティシズム」の別称でしかない、という事でもあります。

 

 

愛と資本主義 (角川文庫)

愛と資本主義 (角川文庫)

 

 

さよなら、韓流

さよなら、韓流

 

 

*1:確かにキモイかもしれません。例えばポルノに見られるような「典型的」性愛ファンタジーが現実に漏れ出して、あたかもそれが当たり前、あるいは「本質的」にそうなのだと一般的に考えられるようになる。HENTAIやBUKKAKEが米国ポルノ業界に定着するまで、そんなに時間はかかりませんでしたし。何事によらず、環境により進化、変化はおこるので、一つのものがずっと永遠不変なわけでもないですが、何よりも怖いことは「一般的」とされた考えが他を侵襲して、排他的になることで、ネットはそれを非常に効率的に拡散できる道具だという事です。

*2:尻、胸、唇、指、股間、腕、脇、等を切り取るようなフレームワークは、女性アイドルに対するものとあまり変わらない。

*3:「”選別”に身を投げ出す男性アイドルと消費社会の中で”権利行使”する女性たち」月間サイゾー2015年8月号。P90-91

*4:The Great Happiness Space 監督:Jake Clennell(2006) 

http://m.imdb.com/title/tt0493420/

http://www.thegreathappinessspace.com/

*5:「マジックマイク」は小粒ですが成功したといえると思うので、こういう映画が盛んになることによって一般化する可能性はあり、日本やアジアとはまた別の形態で「男性性」の消費を行っているということはもちろん有ります。