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夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

「私」が東方神起を「消費」する理由。(1)

私ごとですが、もうすぐ手術を控えておりまして、その後にブログを書きに帰ってこれるのはいつになるのかちょっと不明です。なので、できるだけ書いて置こうと頑張っています。この後に2つ(3つ?)ほど続く、、、予定です(笑)。

先日西森路代さんの以下の記事を読んでいまして、いつもながらのきちんとした考え方に同意を禁じえませんでした。白状すると、実際に西森さんの記事を名前まで意識して読み始めたのは先月くらいから。ラジオも聞くようになって、しゃべりもおもしろかったんだね!とひとり感動してます。

mess-y.com

記事は、ぜひ読んでください。おもしろいです。映画のほうもオススメです。見る価値あり。なにより楽しい。

で、この記事を読んで、私が何を考えたかというと、触れたくはないけどやはり触れずには居られない消費、という行為と東方神起についてです。上の西森さんの記事では主に男性性の消費ということに焦点が当たっているのですが、自分としては勿論男性性も含む性消費、そして音楽や映像といった文化的商品の消費とそしてそれにまつわる「罪悪感のようなもの」を考えてみたいと思い、以上のタイトルをつけました。

前に書いた記事で私は「好きに理由が要るのかどうか?」という疑問を掲げて有ります。そして、理由は要らないでしょう、と言うことも書きました。それなのにどうしてこんなタイトルなのか?

ポイントは2つ、「私」と「消費」です。*1

「私」については、私とは誰なのか?を明瞭化したい。そしてその「私」がどのように「消費」という行動にかかわっているのか?「罪悪感(のようなもの)」をなぜその対象を「消費すること」によって感じるのか?またその「罪悪感」という感情が何に向かっているのか、「私」というポジション(立ち位置)と「消費」という行為自体の蓋然性/必然性といったところにも分け入ってみたい、と思ったからです。

まずは自分自身の事を確認してみますと、第一に日本人であり、女であるといったアイデンティティになります。それに加え、アメリカ在住17年目になることから「アジアン・アメリカン」というアイデンティティも加わって来ています。その他、日本的な文脈でいうところの「主婦」という役割としてのアイデンティティも賃金労働をしている、していないに関わらずに有ります。似たところで「母親」という役割や年齢、世代の入り混じったアイデンティティ。

もっともっと細かいアイデンティティは挙げられますが、通常朝起きて鏡に写る自分を見ながら思うのは「アジア人の中年の女」であることが多い。ネット上で何かしらの作業をしているときは「日本人」(日本語ネイティブ)であることが多いんですね。鏡を見るときは他人が私という形状を見るであろう目線で、ネットに居る時には姿が見えないから言語感覚を通して自分を捉えて居る。これらの属性は時々互いに利害が衝突したり、交差したり、絡まり合ったり、バラバラの方向を向いたりしながら自分の中に存在しています。自分はたった一人しか居ないにもかかわらず。

そんなアジア人の中年女である私は、アメリカ社会のなかでは間違いなく「マイノリティ」の枠に入ります。有色人種、と言われても日本の国内に居た頃は「黒人」というイメージしか持てなかった私ですが、今は有色人種のカテゴリに自分が分類されることは普通として受け止めています。そして人種と性別、年齢によって3種の差別が自分に振りかかる現実も有ります。しかしながら、そのアジア人の枠の中では日系は韓国系、中国系と共に「モデルマイノリティ」として優位性がある。この点は母国の経済的影響が大きいと言われていますが、米国外に視点を移した時、やはり日本のアジア圏一帯に対する経済的な影響力の大きさは実感されるところです。世界規模で見た場合というか、西側視点では「私」はマイノリティですが、アジアに来ればマジョリティ。しかし女というマイノリティ属性は常に引きずっており、最近はそれに年齢が加わった。年齢は所得の向上と下降の両義存在しますが。

それでは、このアジア人の中年女(時々日本人。)の「私」が東方神起をなぜ、「消費」するのでしょう?

一番最初に挙げておきたいのは、それは、東方神起が「私」にとって「消費可能」なものだから、です。そういうと「違うだろ、なぜお前がそれを選ぶのか?を聞いてんだろ?」と言われそうですが、でもその前の段階をすっ飛ばして話は始まらない。

目の前に消費可能なもの、として存在するということが前提として無ければ選びとって消費することも出来ない。食料品などはどうでしょう?消費することと食べる事は、日本語だとあまり関係がなさそうですが、どちらも英語ではConsumeと言い表されます(それはもう本当に言語からして市場主義的ですが)。消費するものとされるものの間にある上位下位の絶対的位置関係が明らかの現れています。

しかし、消費の前にあるのは生産と流通です。例えば3種類のりんごがあるとして、それぞれに生産され、流通されて店先のディスプレイにABC3種類のりんごとして通常並びますが、その間に虫喰いや不良なものは店先に並ぶ前に選別されて捨てられたり、豚のエサになったり。同じ種のりんごでも店先まで届かないものもあれば、今年はAに病気が発生し、BCしかない。。。よって消費者の前には2種類のりんごの、それも限られた量しか並ばない。ということだってありますよね?

とりあえず、消費者としての私の目の前に並ぶ少なくない数の「アイドルたち」もそのように「生産」されてきている「もの」*2であるということです。彼らはお母さんから産まれただけでは「もの」ではなくて単なる人間ですが、プロデューサーの手を経て「孵化」することによって商品となる。そもそも結婚やら異性愛家族システムそのものが単に近現代を司る「生産労働システム」で、人間を生産と労力としてしか見ていないでは無いかという指摘も尤もですが、商品の流通システムが確立し、「私」の前に彼らが置かれる状況があるということは事実です。

茶の間ファンですので、ライブに海をまたいで頻々と出かけるようなことは無いのですが、それでもCD、音源、DVD、フォトブック等など普通に課金しますし、たまにはファンアートを買ってみたりできるくらいの購買力は有る。そしてネット環境があっていつでもお気に入りのアイドル情報を得る事ができる、気が変われば見なければ良い。私はパートタイム労働者ですし、もっとキャリアがあって高収入、あるいはパートナーの収入が高くて金銭的な余裕があれば、もっと差し出せるかもしれません。トンペンの多くは中流家庭以上の環境出身とよく言われていますし。「私」たちは、自らの消費行動により商品の人気、マーケット動向に影響を与え、次の商品の企画の一端を担うことも可能であり、その商品の命運を左右することが可能な立場に立つことも有る。そのような状態を指す「主体的消費者」という言葉は私が日本で仕事していた80年代後半-90年代にはよく聞かれた言葉でした。

ところで、「音楽」に、お金を差し出すことについてはくだんの罪悪感を感じるかと言えば、そういうわけでは無い。

それは「ポップミュージック」(大衆音楽)というものが、商品として流通する事が定着、常態化しているという「グローカル」な状況があると思われます。遠くない過去にはかなり歴然としていたクラシック音楽との垣根はどんどん低くなって、今や相互通行もできるくらいにまでなっていることも有りますし、地球の南側(東、オリエントでも可能)に一方的に西側から流行の商品がもたらされていた時代が終焉し、かつての「オリエント」は、自身の「文化商品」を生産し、自身の市場で取引し始めている。ポップ音楽が学問的にもクラシックと同列に扱われ始めたということもあります。例えばアートポップの流行もあるでしょうし西側以外の地域のローカル音楽が力を持ち始めているということも有ります。そういった中で、厳密に言えば、未だ頑固に商業音楽を嫌う少数のクラスタを除けば、J-POPや、J-Rockを消費ベースで80年台から体験してきていた日本人の「私」たちには「音楽」の商品化とその消費についての抵抗はほぼ無くなっているといって過言ではないと思います。*3

「日本人」で有る私には、世界第2位の音楽市場が目の前に開けており、それらの商品的な音楽は消費し放題。確かに奏者や歌手やら、パフォーマンスの質、作品の質だとかと言った論争は常にあり、音楽が「消耗品化」することについては、消費者として多少なり罪悪感のようなものは存在すると思います。しかしそれが消費行動自体に疑問を投げかけるまでにはならない。

ですがそれが「アイドル」となると、かなり違った文脈が成立すると思うのです。アイドル、はその主要部分に音楽がありながら、彼らは「音楽作品」として存在するわけではない。前にも書いたと思いますが「偶像」つまりは人間のあるべき理想としての夢、ファンタジーの演者、「神の雛型」が原型でしょう。一方で日本型のアイドルはかなり特殊で、消費者がその裏側である「普通の人間」(それがアイドルの持つカリスマや幻想を打ち消すようなものである可能性を含め)を既知の前提としながらも、あくまで舞台上の、彼ら、彼女らすなわち「職業(家職制)アイドル」の生み出す夢に課金するという、いわば半睡半覚のファン状況を産みながら続いてきていると思います。ただ、現在の容赦無いグローバリズムはその家職制文化から半睡半醒のバランスを次第に奪いつつあるのかもしれません。覚醒しろと言う怒声の裏では、人々がより強烈な「夢」を求めているように思えてならないですし、それがアイドルの「普通の人間」であるはずの部分を侵襲して行っている。そんな感覚を持ちます。

罪悪感の一つの源は、女性アイドルを男性消費者が消費する態様に代表されるように、アイドル消費では「性的な消費」がその中心部を占めていることが原因かもしれません。*4

 *あまりに長かったので以下3段落ほどを(2)に移動しました。ご容赦ください。

*1:「結局誰の事もそんなに好きじゃないんでしょう?」などとよく言われるんですが、そんな事もないつもりですって、前にも書きましたね。多分それも、ある意味では当たっている。なぜならここでポイントを「彼ら」に普通は当てる筈ですが、私の場合は上記の二つですから。最後まで読んでいただけましたら、お解り頂けるように書くつもりではおります。

*2:この、モノ、ですが、以前に書いた記事で、アドルノの言う「文化産業」と商品としての音楽を取り上げて有ります。東アジア的アイドルもこういった文化産業の商品の一つと数えられるのでは、と思います。イスマン先生のカルチュラルテクノロジーはこのアドルノの「文化産業」に情報工学を追加した最先端のかたちでしょうか?

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*3:井上貴子。「かつてワールドミュージックのブームがあった」『アジアのポピュラー音楽:グローバルとローカルの相剋』p1-26 勁草書房 2010年

*4:それでも女性アイドルに群がる男性ファンのほうにはそのような「罪悪感」は男性アイドルに群がる女性ファンに比べたら希薄な感じはしますし、きわめて非対称的に女性ファンが罪悪感を割り振られているという図式は成り立ちます。