夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

とりあえず偶像性とはなんだろう?ということから。。。

立て続けにアイドルについての記事を読んだのでそれらについての自分の考えを書いておこうと思います。

読んだ記事は、その訴えの強度にはだいぶ違いがあるけれど、示している方向としては似ているとまずは思いました。以下3記事参照させていただきます。

ka3104.hatenablog.com azanaerunawano5to4.hatenablog.com fuhouse.hatenablog.com

時系列で配置させていただきました。

男性アイドル、女性アイドル(地下)、Kドル(一部日本のアイドル含む)のファンあるいはアイドルに興味や知識を持ってらっしゃる方たちによる、アイドルというお仕事についての考えが述べられてます。

この中で自分にとって重要だった点は以下のようなことです。

  • 女性と思しきお二人はある程度の分量、女性アイドルについても言及されている

  • 真ん中の男性が書かれたと思しき記事は女性アイドルの「プロデュース」サイドも扱っている

  • 三つともアイドルは「職業」あるいは「ビジネス」であることを大前提に記事は書かれている

  • 三つ目の記事はアイドルの「人権」に言及がある

  • 三つともアイドルの舞台から離れた位置での行動(しかしながらビジネスに影響するものと位置付けている)に対する「倫理性」について言及している

私自身は、アイドルは職業である、という位置づけはもちろん構造的にあると思っております。ですが、職業だとして、「どんな」職業なのか?も念頭におきたいと思っています。花魁や慰安婦、ホスト、ホステス、ほかのセックスワークなどと同時に感情労働を担う職業とカテゴライズすることもできそうです。感情労働という観点では俳優、音楽、特にポップ、ロック系アーティストも近いところに位置している気がします。ただ、舞台やフィルムの中と日常の間の線引きはアイドルの方ではより曖昧な気がします。

そのうえで、アイドルに特徴的なのは常に「制作者」(本人含む)が居り(古くは花魁の女衒、現代なら水商売、セックスワークにも管理者の存在がありますね。)消費される対象としてイメージが「商品化」され、ほぼ常時誰かの管理下に有るということ。実際アイドルは憧れの存在そのもの、というより「憧れ」を人々がよりたやすく手にする事ができるように簡便化した「偶像」というのが語源でしょう。でもその卑下した語源の感じには今やそんなこだわらなくてもよくなっていると思うのですが、それでも「像」という部分は残るでしょうね。で、その像のところにファンが何を求めるのか?っていうところが重要なんだと思います。(日本的文脈にはもとから「神」なんていないから「キリスト越え」とか軽く言えちゃうのかもしれませんし、一応社会には溶け込んでるけどそのSignificanceは認知されてないから、かもしれません。その辺は宗教学をきちんとやってない自分にはジャッジできません。)

ただもっぱらそういった「像」において彼ら、彼女らが性的な(恋愛を含む=萌え)消費対象*1となっていることは、演じる彼ら自身が悪いとか、そうみなすファンの目線が悪いとかそういったものではないと思います。しいて言うならジェンダー化された資本主義消費構造の問題ではあるでしょう。でも、面白いのはアイドルとファンとの関係性の中に「人格」や「倫理」がかなりの比重で持ち込まれているのが、日本や韓国型アイドルの特徴かなあと思うんです。

アイドルといったら、アメリカではディズニーアイドル位が関の山ですが、ティーンからほぼ20代前半までで命を終えるこれらのアメリカンアイドル達も、もちろんその期間は「品行方正」で全方位から「好感度」を持たれることを期待される。ですが、たいていは大人になる段階でそういった「幻想」はお墓に入ることになります。

でも、日本型だとアイドルには半永久的にそれが付きまとうんですね。「お仕事」として。。。

今回の嵐、大野さんの事件で大変複雑な心境の女性ファンが多い、ということはすぐに察しがつくのですが、人格的ファンタジーを損なうことによる「萌え」の崩壊って、かなりのものなんだなと驚いています。

確かに反社会的な行動を取ったら、芸能界以前に社会的に罰を受けてしまいますが、今回の事件や、アイドル恋愛禁止などの現象をみるにつけ、日本や韓国の場合はビジネス上に結ばれた「像」から外れることにより「倫理観」を疑われ、それによってビジネスを失う、という事態が往々にして起こるのだということがうかがえます。私の印象としてはこういった社会構造自体が少し「モラハラ」的な性格を持っているのではないかと思って眺めている次第です。っていうのも持ち込まれる「倫理」があくまでもビジネスのラインで語られるということに起因してるかな?権利ではなく責任、義務。ファン(の幻想)に対する義務や責任という形での。。。結局私生活も「仕事」のうちにカウントされるのが「アイドル」なのでしょうかね?でも、そうすることが果たして倫理的であるのかないのか?もちろんハチャメチャな私生活を送るアイドル(例えばアメリカならマイりーサイラスさんだとか、ジャスティンビーバーさん)にへきえきするのはオーディエンスとして普通なんですが、でも人の領域侵さない限りはそれでも彼らの自由ではありますね。「仕事」のところで水戸黄門の印籠が出て、引導渡されちゃうのはやっぱかなり東アジア的、日本的なんじゃないかなとは思う次第です。

  • 余談ですが、考えてみたら、東方神起、JYJのファン戦争も、彼らの倫理観を巡って大々的に争われたんでした。。「東方神起、おまえもか?」なんてな。。。涙。過去形じゃなくてファンには無限ループ状態なのがもっと悲しいか。。。

  • しかしながらもっと余談ですが、先日来ツイッター界を騒がせている「ケリョンデの奇跡」*2がこの3つの記事を読んでいる最中に起こり、うっかり無神論者のはずの私すらそこに「神」を見てしまうという「奇跡」。それは次の記事で書こうとおもいますが、「アイドル」を超える事象だったんですね、私には。。。。

*1:性的というのは性行為のファンタジーだけでもましてやそれがヘテロセクシュアルに限定されるわけでもなく、身体パーツイメージの消費から腐妄想も含まれるということを、コンセンサスとして設けておきたいと思います。性というものがパワーと関連して否応なしに差別的な構造を生じさせるカテゴリーであることも念頭に置いておきたい。

*2:分裂前の東方神起の看板カップルだったユンホとジェジュンが6年間公式に会うことはファン同士の闘争状態もあって叶わず、しかしてファンが芸能人の墓場だと認知していた兵役生活の間に奇跡的に再会、「復活」を遂げたもの。ケリョンデは鶏龍台。韓国軍のフェスティバルが行われ、10月2日公式再会が果たされました。

アイドルの信者が「管理者」でもあること: Super Junior 馬様のスキャンダルから。

先日スマホを開けたら、馬様ことシウォンが、またしてもスキャンダルにまみれていました(;^ω^)

今回はアメリカで、同性婚を認めなかった州高裁の判決に対し連邦最高裁が違憲と判断したことに対し、右派クリスチャンの有名牧師さんが発したツイッターでの同性婚への反対意見をリツイートしちゃったもの。

彼の{お育ちがガッチガチ右派プロテスタント家庭}バックグラウンドならしょうがないだろうっつうのが正直私の感想だったんですが、ネット民はまあ派手に反応してましたね。このニュースは複数媒体で取り上げられたうえ、最終的に馬様が謝罪コメントを出したんですが。その時のK-pop(特に欧米系)ファンたちの反応が非常に先鋭的でした。

SJのパフォーマンス、つべでも見たことのある方ならよく理解できると思いますが、男同士でキスはするわ(しかもヒチョルさんなんて口にですよw結構ディープw)、シャツ脱いでおさわり、液体掛け合い、ハグ、手つなぎ、お姫抱っこEtcというファンサービスがてんこ盛り。もちろんその筋では有名なSMエンタさんですから男同士のカップル押しなども強力にあり、腐女子ファンのファンタジー、ゲイ妄想を掻き立てるわけですね。セクシュアリティの流動化が言われる昨今の若者事情、ファンダムにLGBTがすごく多いという状況もあいまって、腐女子文化も漫画流入とともに定着し始めてる欧米市場でK-Popを語る際のマストアイテムと言えます。

シウォンさん、誰よりもサービス精神旺盛に(てか天然なの?がちなの?とみなさんいぶかしむくらい、それは自然に)、それらをこなしてらっしゃいます。だからかねえ、今回の発言を、

「普段男同士であんなに官能的に触りあってるのに何なの?」

と揶揄する方も居れば(かなり多数がこっちでしたが)、

「結婚には反対でも、性的少数者自体を否定しているわけではないじゃないか?」との擁護派も居たり、

「スジュはファンではなかったが、よくぞ真実を言ってくれた」というような保守的な意見もありました。

どんな意見が飛び交ったかは以下の記事を参照なさってみてくださいね。

www.soompi.com

しかしながら、シウォンさん謝罪前にはきっちり反同性婚の立場の確認もしてまして、ま、そんなこんなを眺めながら、なんで世俗国家と呼ばれ、古くは衆道の伝統を持つ日本が同性婚を認めようとしないばかりか結婚は男女間だけのものであるとか、そうしないと家族が壊れるとかやってんだろうか、というところを考えてしまいました。ガッチガチ右派クリスチャンとほぼ同じなんだよねーーー、スタンスが。(日本の同性婚についてはいずれ日を改めて書こうと思います)

www.sbs.com.au

彼とは逆に、いち早くLGBT支持を表明したのが同じSMエンタのジョンヒョンさんでしたが、シウォンさんは「ビジネス的にそれで成功するとしても、自分の考えは曲げられない」と、頑として否定派の表明してたんすよね。私は個人的にはもちろん支持派ですし、Atheistだし、おいおいどっちがビジネス?って思ったのも事実。でも、シウォンさんを「否定」する気はないの。むしろ彼の内面の葛藤とかを想像するにつけ萌える、という変態でもありまして。謝罪したときにはめっちゃ萌えたわwおちゃみとの同伴入隊にも萌え萌えですけどね。

さてと、ここからが問題。。。

この騒動が面白かったので、もとツイのJohn Piper牧師の主催する団体のホームページDesiring Godにまで足を延ばしてみたんですが、そこで見つけたのが神学者Richard Lints博士とPiper牧師のダイアローグでした。

www.desiringgod.org

「なぜコントロールフリークはアイドルに傾倒しがちなのか?」

というびっくりのタイトルですが、一応ここで言われている「アイドル」は宗教上の「偶像」という意味合いが強いので、歌ったり踊ったりする可愛子ちゃんという「東アジア芸能界の産物」とはちょこっと薄い色の線をひいて置く必要はあります。(アメリカでは、その手の芸能人はポップスターと呼ばれますし、アイドルという呼称を受けることはあんまりない。アイドルは偶像崇拝というプロテスタントの教えのタブーにあたりますからして。)でも、読んでいくとね、ずばっと切り込まれるところがあるんですよ。

”造られたもの{アイドル}は、造るもの{神}に比べコントロールがたやすいというのはあきらかな幻想である” が、 ”コントロール可能なものに対して抱く深い満足感にはえてして非常に強いものがある” って。。。。

自分がコントロールできるものに対して人は中毒する。それは私も知っていました。先月に書いた記事の中でも「アイドルファンは管理者でもある」と書きましたので、暇な方はもう一回読んでみてください(笑)。

ravensk.hatenablog.com

それが実在宗教の文脈でも言われてたのには結構ガツンと来ましたねえ。まあこのダイアログでは、「自分探し」として「偶像性」を用いてしまうことを多分指摘しているのですが。そして、テクノロジー(スマホだのパソコンだの)がその「管理する力」をたやすく人々に与えてしまうのだという素晴らしい洞察もある。SNSを利用した「自分自身のアイドル化」は確かにあります。誰もがスマホさえ開けばたやすく「世界」と繋がれる。そしてそこにはすべてのチョイスがある、というかその様に感知される。この操作性による全能感が自分という存在を全能の神みたいに創り上げる、そういう偶像を個人の意識の中に出現させるって事。

これを東アジアの「アイドル」文脈で解読してみますと。

我々が「アイドル」に抱く「こうあってほしい」という希望はそれがたやすくかなうほど中毒性が高くなる。顔もダンスも歌もうまいのはデフォルトで、さらに「人格」が素晴らしいというすべてが揃う「全き存在」「現人神アイドル」の「東方神起」が中毒の頂点に君臨しているのはそういうわけなのかと思います。そして、韓国アイドルに対して、いい大人の日本女性が特に中毒するのは、彼らとファンとの間の差別的構造に由来するものでもあると思うんですね。金銭面でも、歴史的な両国の関係からも、明らかに非対称な構造が存在します。しかもそれは、日本の過去や価値観に密接につながっている。とにかく、日本のファンには韓国アイドルは相対的に御しやすいのでしょう。これははっきりとネオコロニアルなビジネス構造といっていいと思ってます。

「恋愛は100%隠せ」 「この話題にはこう対応してほしい」 「事業はしないで音楽に専念してほしい」 「メンバー同士でいつまでも仲良くしていてほしい」 「家族を愛する道徳的な人であってほしい」 「常に努力して進化を見せてほしい」

等など。。。まあいろんな希望がありますよね。アイドルは理想の姿でしょうから、やっぱり人格だって良くあって欲しい。わがままなファンの希望をかなえるべく、アイドル達は努力する。しかし、彼らも人間ですので、いろいろと無理なこともあるでしょう。ファンには別に自分がアイドルと恋愛したいという欲望とかでもなく(それもある人にはあるんでしょうが)、でも上記のような自分の考える善、理想への同化を激しく求める傾向が見えるし、それがかなうとそのことをファンは「アイドルからの愛」として受容しがちなんじゃないのかということですね。かなわないとなると、つまりそれは一部のファンにとっては愛されてないって事になる様なのですが、ファンを辞めるばかりではなく、逆にストーカーアンチになったりしやすい。昔、どうして好きなアイドルのアンチになってしまう人がこんなに多いのか、ものすごく不思議だったころがあったんですが、コントロールフリーク、という側面から考えると氷解しました。

そもそも、アイドル信者のコントロールフリーク的性向がなければこれは成り立たないビジネスってことは言えると思うんですが、ファンは気をつけなくてはならないですね。人権に対するリテラシーもジェンダーに対するリテラシーも低い東アジアですが(というより人権という概念が「無い」とまで言われることがあります。そこには論争もあるのですが、、、)、商業に対するリテラシーだけは相対的に高い。「ビジネス倫理」を「倫理的なビジネス」より優先し、そのことに気づかない、あるいは知っていても無視できてしまう状況があるということ。アイドルはファンが(あるいはプロデューサーの)作り出した「偶像」であって、ファンの願い(ファンタジー)をかなえるべく商業空間に存在しているには違いない。でも同時に彼らも人間であることを認めておかないと管理欲という毒でおかしくなってしまうのはファンのほうではないかなあ?アイドル本人も勿論ですが。。。彼らの幸せをファンが願う、願わないによらず、何が幸福かを決めることを含め彼らの人権は明らかに存在するし、それらは彼らのものなので。

追記:恋愛を完璧に隠せというのは、まあそれだけ恋愛という事を重視してるという事なんですよね、多分。てか、それがアイドルマーケティングの基本ですよね〜。恋愛しなけりゃならないという強迫観念が社会から消えたら、もう少しそういった管理項目や条件は緩くなるのだろうか????

暴行@国会に対してフェミが何も言わないということについて

大沼議員が津田議員に暴行されている動画を見ましたが、これについてリベラル、特にフェミが何も言わないって言われてるようなので、とりあえず一言記しておこうと思いました。

リベラルが民主党の失態をつつけないから、ということはあり得るとして、なぜフェミがあんまり出てこないのか?って言ったらこれって言い様があんまり無いからではと推察してます。とりあえず今の時点では判断を出すには情報がなさすぎる。

強いて言えるとすれば、暴力は悪い。くらい?

動画を見てても、いまいちこの様な状況に至った理由が明らかにはならないし、これが個人的な怒りが理由なのか、女性一般に対して向けられているものか、情報が不足しすぎていて判断が難しい。どんな理由があったところで、暴力は暴力だとしか言えない。敢えて言うならこれは無差別的な暴力とは言えるかもしれないけれど。

大沼議員が女性議員だから暴力振るうなとかっていうならピンクの民主党女性議員と同じだろ〜と思う。むしろ民主党女性議員のやり方はフェミ的では無いと言える。あれじゃあ差別してほしいと同義。無論フェミにも色々あると思うのでひとまとめ出来るわけでもないけれど。フェミニズムを大なり小なり学べばレディファーストが女性差別と同義と理解するのは難しくないこと。私達は女なんだから、別の扱いしろってんならそれこそが差別的。あれだけ暴力行為がじゃんじゃん行われてる国会と言う場でね?

セクハラの定義ももう一度おさらいしなけりゃならないようなレベルでしょう。結局民主も自民も男性議員も女性議員もそうそうは変わらないジェンダー観を持っている、てな事は日を観るより明らかなんだし。

リベラルと呼ばれる人々が、先鋭化していく一部を除きどんどんどんどん発言しない方向というか発言を内部に収めたり、討論を避ける方向に向かっているけど、それは自由がどんどんなくなって行ってる感覚とシンクロします。でもこんな時こそ何か言うべきなのに実際この状況で何かを言うのもゲンナリなのも理解できます。「ブロック化する社会」というのは長らくノンポリで政治性が生活上になんら影響を与えなかった期間の終わりも告げるものなのか?

2015年08月30日Part0(予告編)「ブロック化する社会をどう生きるか (文化系トークラジオ Life)

サヨク的な発言が嘘くさい、お仕着せで何も考えて無い、偽善的、と嫌われて狩られるのも理解ってるし。まあ黙ったところで、発言が無いというレトリックで再度狩られると言う事態もありえます(苦笑)。だから、気は重くても何か言わなきゃならないのでしょう。

ブコメもしましたが、この百木漠さんの記事はそういった意味で非常に淡々と大事なことが書かれていて面白かったですね。多分ネット愛国民がマスゴミというときにはそこには産経や読売は含まれてないし、保守系メディアを「メディアが〜〜」とか言ってるわけでも無い。彼らが本当に嫌い、「特定の思想」として攻撃している実態はなんとも曖昧な日本人のなかの「リベラルのようなもの」であると。それに反日という記号を付けて標的にしている。

評者◆百木漠|図書新聞

評者◆百木漠|図書新聞

当たり前といえば当たり前に、日本語で行われるヘイトが、日本人同士の間でこそ一番に目立つ。特にそういう事が嫌いな左側の日本人にとっては挑戦的に可視化する。そもそもそこへの投げかけであるとも言える訳ね。

2015/09/22 11:38

ただ、そうはいっても「なぜ」そういうアイテムが反日アイテムとして標的になってしまうかも考えてみる必要はある。そこで、「声」というものが少し浮かび上がるのではないか?メディアや政治家は、声を拾い上げる機能をもつからでしょう。私自身も沈黙が美しくみえちゃう様な文化的な滓を自分の中に持っていることに時々気づくのだけど、慰安婦問題にしろ、生活保護受給者、少数民族、LGBTにしろ、声を上げたところでたたかれることが始まる。当事者の声を封殺しようとしたり、沈黙を強いる言説が「愛国」とかぶるのもやっぱり明らか。そういう声を拾い上げる行為やデモに対して怒り出すのは、自分こそ国に愛されたいのに愛されないという飢餓感の為なのか?そこは憲法学の木村草太さんが愛国者こそ国に「愛されたがってる」と書いておられましたな。納得。

ほんと「愛」って醜いわ。。。

憲法の条件 戦後70年から考える (NHK出版新書)

憲法の条件 戦後70年から考える (NHK出版新書)

女がわからない、という言説をかみしめてみる。

多分「女」として生活する上で誰でもが一度や二度は(たぶんもっと頻回。いちいち数えてみる気もおこらないくらいの。)耳にする言葉。

これを言われる時のえもいわれぬ居心地の悪さ。 自分が突然正体不明の薄気味の悪い、あるいは我慢ならない非論理的物体に突然させられるわけだ。

そういう事を言ってるほうは想像してみたことはあるのだろうか?

相手は「女特有」とその人間がみなす性質や行為の特徴をソフトな形で断罪するとはなし的に、でも確かに断罪しているんだもん。

その場合の「女」とは一体「誰」なのか?と、考える。

(発言者の彼または彼女の目の前の)特定の個人? じゃなくて、女性器のある人類すべて? 足りない?性自認が女である人々すべて? それともそこにFtMも入るのか?

とりあえず、特定してくれないかなあ。。。 一体誰の事言ってんのか?

そのうえで、考えてみたらどうなの?

本当に女性器ついてる人々の行動すべてが当てはまるのかいな? てか、男性器ついてる人々も結構同じことやってない? (嫉妬とかあ、ヒステリーとかあ。。。いい年ぶっこいてアイドルや恋愛にはまるとか?。。) マジでいうなら人類の男女別の行動の特徴って呼ばれてるものは、社会的な習慣の集積と呼べるもので。そもそも構造から発生してるはずじゃなかった?

そういった特徴が「人間の形状(つまり性別)に本来的に由来したもんだ」、というならば、まるまるイ・クアンユーの世界だわ。。。

「文化(マンコ)は宿命だ」

いやいや、こないだCakesの岡田育さんと深澤真紀さんの対談で「女オンチ」てのがあったけど、そこは納得したの。つまり、現在の日本で「女子」として生きることは、本当に高いスキルを必要とするからね。確かに自分もKYを絵にかいたような人間なので、息づまる感覚というか、自分がズンドコすぎてはずかしくて生きてけない、日本じゃ(汗)。おにぎり二万個も握れないし。

我々はフェミニストなのか?ーーvol.1|女オンチな女たち|深澤真紀/岡田育|cakes(ケイクス)

素晴らしく「構築」された「女子」という概念を真摯に追求するスキルとスペックの高い日本女性達には本当に感心するばかり。「女子」ってホントに職業なのかもね。。。

いやそんな日本の女子道には及びもつかないけれど、女性器あるってだけで生きてくのは確かに面倒くさいよ?わからない人に、一つだけ教えとくけど、ただでさえ女仕様になってない世界で生きてくのはとりあえず「宇宙人」として息してるみたいなもんなんだわ。本日もクラスで話題ではあったが、最低限の衛生的生活が保障されるため、公の場所のトイレにトイレットペーパーがただで備えてあるのは皆の期待通りの「普通」でも、生理用品は「自己責任」なんだからね?面倒くさいのよ。生きてるだけで。ホント。。。

「女がわからない」

とりあえず、これは人類の約半分への理解を放棄しましょうっていう事よね..これ? ぶっちゃけ「わからない」とうっちゃろうとしてるわけでしょ?うっちゃれないだろうけど(笑)、大きすぎて。

わからないのは、自分{個人}の考えと違う行動だからなのか? 本当に相手が「女」だからなのか?そこに女だという先入観はないのか? 自分{個人}の感情としてそれらの行動が受け入れ不可能だからとりあえず波風立てないように「嫌いだ「という代わりに「わからない」と拒絶してるだけなの?

でもこうやってる限りずっとずっと人類の性別二元論は続いていくでしょ。合わせ鏡みたいなもんで。男はこう行動して女はこう行動すると、そんなにスパッと二つには割れないのが性でしょうに。人間の個別の行動と意味がわからない、というならともかくわからない対象がぽんと「女が」にすり替わる。だからこれって軽くミソジニーと呼ぶこともできるよね。理解の放棄は「排除」ととても近しいから。ある意味「戀愛工学」やナンパ師セミナーはこの「不気味なわからなさ」への挑戦なんだろうね。現代版の魔女狩りだわ。

理解しておきたいことは、この「わからない」という言説自体が正体のわからない薄気味の悪い「女」を限りなく再生産する装置である、と言うことでしょう。

アイドルがホモソ(絆)を救う?

なぜ男性アイドルグループが英語圏ではボーイバンドという呼称なのかを考えていたのですが、そのうちにそもそもバンド(音楽集団としての)がなぜバンドと呼ばれるかを考えたら、もっと話は分かりやすいと思いました。バンドといって一番に人々が思い浮かべるのは昨今はロックバンドなのでしょうが、まあ古風に言えば「楽隊」です(笑)。ボーイバンドというとアカペラを思い出す人も多いと思われますが、そもそもその身体性(少年の姿態および美しい声)をマテリアル化した少年合唱団なども、起源的にボーイバンドと呼びうるものではないでしょうか。それ以前に英語のバンドという言葉は帯でもあるし(ラジオの周波帯なんかもそうですね、同一性を表している。)、何かを何かと結びつけるものでもある。

では今日のポップカルチャーにおいて、ボーイバンドが何かと言えばやっぱり「絆」、ですよね。男子の。

bandの直接的な意味も「絆」ですし、その「絆」が(おもに女性のオーディエンスにとって)男性アイドルグループの重要な商品価値の一つになる事はごくごく自然なことと言える。

しかもK-popグループの男性アイドルの場合は背後に非常にホモソーシャルかつホモエロティックなファラン文化があり、現在も続く軍事文化があります。「絆」がアイドルグループのファンタジー的萌え要素として以上に現実味を帯びていることが、さらにファンの萌えを煽ったりするのではないかと思います。それは、ファンが兵役に就くアイドルに対して銃後の母の様相を呈していることからも想起されます。勿論、これは日本や他のアジア系男性アイドルグループにも概して言えることですが、短期ではあっても男子皆兵制度を採る韓国アイドルに最も顕著にみられる特徴ではないでしょうか?

女性オーディエンスは彼らのホモソーシャルを一般的に肯定的に受け止めているようですが、特に日本人女性、そして腐女子方面にこのタイプのファンが多そうです。前記事でやおいが脱構築と書いたんですが、現在の日本のオーディエンスはK-popアイドルに対しても非常に構築的なんですね。セドウィックの例を前記事にもひきましたが、もはやホモソーシャルをホモエロティックと読みこむことは何世代もフジョシ文化を重ねている日本では何の抵抗もなく構造化されてしまっているといってもいいかもしれません。

男性で、この仕組みがわからず、腐女子怖いと言っておられる方々は、脱構築方面ではなく、こちらの構造化されている方面を見てみれば納得しやすいかもしれません。つまり、ヘテロセクシュアルで常に行われている関係性(つまりパワーによる差異化)の再生産を男性キャラ同志の間に置き換えてみればいいのです。エロティックな要素を含んでいるだけで、一般に社会で行われている人間の関係性と大差ないと思いますよ?女性アイドルの「身体」が消費されるのとほぼ同じやり方で、「男性アイドル同志の関係性」が消費されている、ということがわかると思います。要は誰が誰をマウントしちゃうのか?が非常に重要というわけですね。でも、女性アイドルの男性ファンなら、百合でも無けりゃ、誰が、という部分は問題じゃないでしょう?主体は常に自分の目線だから意識される事が無い。

かたや男性アイドルグループの女性ファンはCPファンであることが多くその「絆」を愛着の対象としている。勿論ふつうに自分がアイドルと疑似恋愛するタイプのファンも多いですし、身体パーツ消費も単体萌えもちゃんとありますが、男性が女性アイドルを自らの「嫁」化する現象に比べ、圧倒的に彼女らは誰かを誰かの「嫁」(あるいは姫)にしたがる現象があります。だから男性のアイドルファンが自分と女性アイドルの間に関係性(所有感)を築くのとやや違い、アイドル当人を透過して「カップルの関係性」を対象化、オブジェクト化する傾向にありますよね。当人たちへの執着と関係性への執着が不可分になっている場合も多く、さらにはそれを通り越して「愛」や「関係性」のみのファンと化しているのが見受けられる事もあります。いわゆる絆ペンとか。それが面白いところですが。この対象となる関係性は「差異化」や「所有への執着」というヘテロセクシャル的な関係の再生産であることも多いのですが、しかし、性の起源を差異化におくとすれば、現在の日本の実社会において「対等な愛やセックス」というものは不可能に近いわけですし、想像の範囲内にもないのかもしれません。或いはしがない現実を受け入れる手段として二次創作においてそういうものを再生産しているのかもしれない。表現物において(FFやファンアートなど)ホモエロティックを扱いながらも非常に異性愛的な表現が見られるのは、実社会の反映として頷けるところなのですが。(ホモソーシャルは非常に異性愛的でもあるってことですね。)

そこなのですがじゃあ一体アイドルファンおよびアイドルは今のこの日本においてホモソを救うために機能しているのか?という疑問が湧いたんですね。

で、実は先日、二村ヒトシ氏x金田淳子氏x岡田育氏のご本『オトコのカラダはキモチいい』を読ませていただいたのがきっかけで、今度は中村淳彦さんの『ルポ:中年童貞』に手を出したのですが、めちゃ面白かったです。そのなかに在りましたよ。アイドルオタクで中年童貞というケースが。アイドルとの疑似恋愛で満足が得られ、もはや現実の女が不要になっているケース。この場合は、女性アイドルが彼のホモソ的心性をアイドルオタクファンダムの構造において救っているわけです。

中年童貞のルポでは女性に「持てない」男性が会社組織という「ホモソーシャル」からも排除されるさまがかなり詳細に記録されているのですが、まがりなりにも一人の「女」も「持てない」男は、ホモソ的には完全に落伍者でしょう。藤沢数希さんの『恋愛工学』ならば足きりに遭ってるところです。それを女性アイドルが救っている。アイドルと言いながらも、構造的にはファンは彼女らに投資することで管理し、ある程度の支配をすることが可能です。AKBの恋愛禁止なんかがその最たるものでしょうが、それが破られた暁に、峯岸みなみ坊主事件はおこったんですよね。頭をまるめるって、スポーツ部の不祥事の対処なんかを彷彿とさせる、いかにもホモソーシャルなフラッグじゃないですか?

男性アイドルの女性オーディエンスの場合、特に「婆」人口の比較的多いK-popファンダムの場合はリアルでは夫や子供がいてそれなりに社会に同化している場合が多いですから、中年童貞群に比べたら「社会から排除されている」とは見えない事が多いです。が、しかし、実はその「主婦」あるいは、「兼業主婦」という「居場所」たる家庭は実は社会においてはかなり周縁化された位置と言えるのではないか?この層は完全に愛国奥様とダブっている。そして実は『中年童貞』においても、ヘイトスピーチを繰り返すネトウヨ層が挙げられています。周縁化された人々をアイドルが救い、そのアイドルを消費構造が「守って」いる。

女性アイドルは自らすすんで周縁男性ファンによって対象化されることでホモソを救い、男性アイドルの女性ファンは自らの周縁的位置関係によって否応なくホモソの偶像化に走り、その巫女化する(それ故韓国男性アイドルを過度に消費しようとする?)といったような事が行われていて、結局ホモソを中心とした消費構造が延々と続き、男は壊れかけて居り、女が必死にその壊れかけたホモソを維持する側に回っているっていう図が見えてしまうのは私の目がおかしいんでしょうか?女性が、受動にしろ能動にしろ、巫女的役割を引き受けてしまっている。女性アイドルを「キリストを超えた」と評している皆さんは、自分達のホモソを救って貰ってるという意味でそうおっしゃるのか?なら例えば東方神起はどのように捉えるのでしょう?この名前見て、何も感じないかな?大東亜の神っていったら天皇では?

前にも書いたとおりユンホを父、ジェジュンを母とする「家族の肖像」は、「アジアの家族の肖像」では無いのか?という感覚は前からあります。そして父といえば天皇を挙げる日本人ですが、昭和でも、大正でもない「明治」が特殊な偶像性をもって今だに日本人の物語をかたどっていますよね。前田敦子がキリスト越えなら「ユンホは(明治)天皇を超えた」と言えなくは無いのでは?実際、神性という点でユンホのような父性を強調できる「男神」は今現在日本の芸能界には居ないように見受けられますし。というか、前にも言いましたように背景に「父の不在」が有ったからこそ、のこの状況ではないか?聖なる父ユンホと聖なる息子(チャンミン)のホモソーシャルは切ない物語性をガンガンに孕んで主婦層を「失ってしまった父」神話の再建に掻き立てる。息苦しいくらいに。特に愛国奥様でありかつ東方神起ファンと言う方々の自己矛盾にさいなまれる姿は非常に痛々しく映ります。しかしまたその人々が吐き出すぞっとする様な嫌韓発言、ヘイト、慰安婦や少数者への差別的発言を見ていると、この絆への献身、ホモソの補強が女性やマイノリティの分断、序列化とその永続化、ファンダムの分断、序列化と重なり合う様に絡んでいる事も見えて来る気がします。二人の東方神起が日本での人気に相反する様に韓国内で勢いを無くした事、そしてこの物語が一方では東方神起分裂に伴うJYJ(ジェジュン、ユチョン、ジュンス=女子供)の日本の芸能界からの事実上の排除と周縁化である、というのも偶然では無い気がしています。

しかし、です。このような東方神起現象を世界規模で見てみる時、実はそういった絆にベタに「普遍的な関係性」を模索するファンも少なからず居るということに気づきます。というより性を差異化と逆方向に牽引しようとするタイプの変化が見えるというか?(可能かどうかは別として、ですが。)欧米のK-Popファンはアジアに比べて年齢層が低く、また腐女子歴も短い。マイノリティも多く、現実のLGBT方面と親和性が高く、こういったファン層はカップル信仰にしてもナマモノ取り扱いにしてもあまりお約束に縛られる感じは有りません。この様なファンのあり方に逆に影響を受けた日本のファンも少なくないかもしれませんね。フジョシ的なコンテンツは往々にして性的でもありますから人権に抵触するような行動、言動は注意が必要で、勿論避けるべきでしょう。ただ日本の腐女子の歴史が長いことで海外ファンにセンパイ呼ばわりされるのとは裏腹に人権リテラシーが実は弱いというのは有ります。著作権や企業権益リテラシーは高いのですがね。日本人やアジア人の高齢ファンが良くやりがちな「OOはゲイじゃない」「XXはホモじゃないから」と騒ぐことなどがそれにあたるでしょう。そういったことが少数派セクシュアリティーを異端視して差別することに繋がるというのは欧米人のファンは若年層でも生活上の知識で知っているため、そのような形で騒ぎ立てることはよほど年齢が低くない限りはあまり見かけない。ファンの振る舞いにもコンテンツにもグローバルスタンダードが必要って事になって来るんじゃないでしょうか?

そんなこんなの現象をお約束違い、腐はゲイとは違うとして嘆く古参腐女子も見かけますけれど、私は腐女子の意識にもジェンダー視点は広く持ち込まれるべき時期に来ていると思います。ホモソへの親和性は消費構造に乗るためには有効だったかもしれないのですが、お約束や恋愛工学を追求すればする程辛くならないですか?まあそういったものは恋愛やらセックスといったものの身も蓋もない構造を学ぶ為には有効かと思うんですけども。そもそも救うべきはホモソなのか?ホモソーシャルはそういったものへの欲望装置でも有りますから、救いたい感情があっても不思議ではないですが、しかし逆に欲望を強制される事ほど辛いこともない気がするんですよね?

それらを考える為にもこういった変化もとりあえずは受け入れる、ゆっくりと考えて行くべきもの、と感じております。

今更ですが、やおいと脱構築。

いつも楽しく読んでいる岡田育さんと腐女子の皆さんの座談会が今回も面白かったので、ちょっと頭に浮かんだことを書き留めておこうと思っています。(備忘録w)

まずはこの記事。

cakes.mu

今回の座談会の出席者の皆さんと年齢が被ることもあり、色々頷きながら読んだのですが、たしかに近年のBLに対して私も「ヤッてるだけじゃん」と思わないでもない、そういう時期も有りました。2000年代前半くらいでしょうか?ご多分に漏れず、私も24年組の洗礼を受けた世代です。なので、そこは「商業BL」という括りに対しての見方にバイアスが掛かっていたのも事実じゃないかと思います。ラブの大量生産と消費って、ジュネ以前の少女漫画の「異性愛ラブ大バーゲン」のようにも見えたし、商業BLとほぼ同時期か少し前から台頭してきたレディコミともきわどさで言ったらかぶってましたし。ラブを見ても、エロを見てもどちらにも「ヘテロロマンチック」と「ヘテロセクシズム」がちらつく。。。

「ラブ」じゃなくて「ライフ」を見たい!

今思うとそんな感覚があったんじゃないかと思います。実際、ラブもセックスも、いい加減飽きるw。。。。

いや、ホモエロがキライと言うわけでは無いんです。むしろ逆なんだけど(笑)。確かにフジョシコンテンツはフィジカルな表現に於いてもメンタルな書き込みに於いても素晴らしい進化を遂げました。でも、そのうちに表現に手垢がついたり類型化、陳腐化も起こった。

振り返れば、古典的な「少年愛」から一足飛びにBLに突き進んだわけではなく、中間地点は存在した。現在のBLの属性原理主義!?の元になるような区分、「美青年/美丈夫耽美系」「洋楽系」「古典芸能/衆道系」「ヤンキー系」あたりが中間で生まれていたと思うんですね。で、いわゆる「やおい」はそのとっかかりに位置していたと思ってます。

「やおい」といえば、わたしとしては、波津彬子、坂田靖子、花郁悠紀子の同人【ラヴリ】、それと森川久美、東京女子大の【やっはるーっ】です。「やおい」を編集者(男)から作家(女)への罵倒の言葉としての「山なし、落ちなし、意味なし」から、ホモエロティックの隠語に置き換えたのが、彼女ら24年組より数才年下の作家たちでしょう。ホモソーシャルかつミソジニーであった漫画出版界の用語の【意味】をかくらんさせたわけです。

彼女たちのやおい作品に頻繁に登場していた19世紀末の英国紳士同志の戯れ等は、何故かイヴ・コソフスキー(セドウィック)が指摘したホモソーシャルをホモエロと読み変える事と酷似しています。なぜ被ったんでしょう?つながりはなさそうなのに…偶然?ヴィクトリア期英国という部分なのかなあ?(ちなみに日本ではなんでセジウィックって発音するのかな?彼女とは幼なじみという先生に去年教えてもらいましたが、セドウィックって発音してた気が…)確かに英国コメディのモンティ・パイソンにもよく取り上げられてましたね、そういうネタ、超ノンセンスで面白かった… ここは「やおい」を考える上で、実際本当に大事なポイントだと思うんですよね。

意味なんか有りませんけど、何か?

理由らしき理由も無く「男どうしの関係」が、ただ存在しちゃっている。蓋然性しか無い(笑)。。性は本来的に二元であって、異性愛以外は「異常」というのが当時の日本の一般大衆の認識だった頃。画期的なわけですよね。この無謀なまでの意味の無さが、のちの登場人物全員男色の「ホモホモ学園モノ」とか、人も獣も無機物も問わず受けと攻めにしちゃうとかの腐女子のやや突飛な性格に引き継がれているとすると面白いと思うんです。

Juneにももちろん非常に影響されました。で、竹宮恵子x栗本薫の塾が始まって「男どうしでなければならない必然性」とかいうものを考えてみたりしてましたが、はっきり言ってアレは疲れました。あとから考えたら、せっかく「意味」から逃げたのにまた「意味」じゃあ、元も子もありません(笑)。

June全盛期を経て、商業BLが生まれ、漫画にもメディアミックスの波が押し寄せ、エイベックス的ドライブがかかりだすと、桜沢エリカ、岡崎京子(のちには安野モヨコなど)などのカリスマ「女子マンガ家」が現れました…ヤンキー化と言ったら失礼なのかもしれないですが、私は非常にこのヤングフィール系の作家の方たちにも惹かれました。90年代は私にとって「ややリア充」【ヤリマン期】だったからかもしれないですしそれはつまりご多分に漏れず「女であることの病」と直結してもいた。自分探しや自己肯定感の罠にとっぷりと浸かっていたと言ってもいい。そんな中で読んだ彼女たちの作品にはホモフォビアは漂わず、そこかしこに「普通にホモの脇役」がヘテロの主人公たちと並列に特に「意味もなく」存在していました。意味は無くとも存在していい。「ホモライフ」って、この辺りである程度市民権得ちゃったんですよね、女性向け作品では。

で、なぜ大島弓子だったのかというところにちょっと戻ります。

70年代後期、漫画というメディア自体が文学として成立してしまったその時代の受け手としての「ブンガク少女」クラスタに自分はいました。この「自分」ですが、今思い返しても、大島弓子作品の登場人物がかぶるんですよ。ぶりっこしようというわけでも有りませんが、少女漫画はこの時期最大限に「ブンガク」してましたし。時代的にはレディコミがお目見えする前かな?私は他の24年組の作家群、特に萩尾望都などはもの凄く好きなわけですが、大島弓子は別の意味でおもしろかった。物語を楽しむと言うより目線。つまり大島弓子に見られている「自分=少女」という存在が主人公として浮き上がるからです。萩尾先生がこの時期指摘してたのは領域侵犯的に関わってくる「マニア」と呼ばれる読者の存在でしたが、大島弓子作品にはそこに通じかねないような(読者である)作者の視点が存在していた、という事でしょう。

彼女の作品中で、

「わたし、男になって男を愛したいなんて夢は捨てる」

という後世に残る【つまり共有が少女達の間で大きく行われた】名台詞が発話されてしまった。これ解釈にはかなり幅があるかと思うのですが、セリフ自体が広く共有された事は間違いないと思います。大島弓子という人は腐女子という語句が出来上がる以前、腐女子論などが展開される以前のとっくの昔からちゃんと「女達」の行動を見て腐女子も女子である以上はジェンダーに絡め取られた存在だということを見ていた。「女子」という90年代を経て完成するジェンダーを時を超えて客観視し、捕捉していたのではと思います。もちろん、この観察が当てはまらない、という腐女子の方も多いでしょう。男になるのではなく、女である自分の存在そのものを消したいであるとか、視線だけになりたいとか。その時点で彼女に現在の多様な腐女子の様態が予見できていたかはわからないのですが、少なくとも変えられない現実を抱えつつ、意識的に、もっと言うなら醒めながら「夢」を見ている少女の存在を彼女はちゃんと捉えていたと思います。

ところで、原始腐女子にとって「腐る」という精神作用、そして「や/お/い」と言う語の転用こそ【脱構築】そのものであったと言ってさしつかえないのでは、と今更ながらに思ってます。

古典的ヘテロセクシズム、恋愛消費マーケット(「なんクリ」とかねw 33年後のなんクリ、とっても良かった!)、結婚至上主義、核家族による生産の理想化。こういったものが【意味】であるとすれば、少なくともわたしが「少年愛」やら「ホモエロ」にハマったのはその【意味】を壊したいキモチがあったということ、ではないのか?男性編集者が編んだ「山もオチも意味もある」お仕着せの作品じゃなく、自分の欲しいものが欲しい。結局少女たちのそういった消費行動が、subversiveな場の創生、そしてフジョシ市場形成を促したって事にならないだろうか?

中学生の頃NHKのニュースを茶の間で見ていた父が、私に聞きました。「おいっお前も同性愛なんかに興味あるのか?」画面にはばばーーんと【風と木の詩】。。。父母にはわからないだろうと平気で茶の間で風木を読んだりしていたため、冷汗かく私w

オカマと当時は蔑まれていた属性。なよっとした雰囲気の男性や、風体、感情に流されやすく論理的でない、、、等などを「女の腐った奴」という言い方で表すのが【意味】であるとするなら、そもそも女である自分が「腐った」らどうなのか?【意味】は全く意味を成さない。。。。

その時そう答えられたわけでは勿論有りません(笑)。 が、近年つらつら考えるにつけ、どうしたってそこにあったのは意味の破壊、無力化、そして「脱構築」じゃ無いかと、そう思わざるをえない。

あ、やおい、BL、腐女子本はホンモノのゲイには無関係と最近までは盛んに言われていたようですが、私は実はその昔「おこげ」属性でもありまして、また現在は腐男子にも興味を持て余しています(笑)。もちろんLGBTコミュニティにも足を突っ込んでますが、アメリカ在住のせいなのか、流動性というのかFluidityは常々感じます。アセクシュアルがセクシュアリティーなら、腐女子もセクシュアリティーじゃないか?とか思ったりして(そういう論も有りますかね?)逆に「腐女子の縛り、お作法」などがしちやかましく言われると、引いちゃうことも多くなった。それがゼロ年代あたりだったかもしれません。最近になって、そのお作法を色々ぶち壊す勢いで、K-popアイドルによるいわゆる三次元萌えを体験したせいで、再構築されかかった【意味】を、ここへ来てまたまたこわしていくスリルをひしひしと味わって居ります。

ちなみに、こちらのブログも、大変参考になりました。

やおい その誕生と遍歴 | よろめ記

ポルノ化する音楽

2014年8月に書いた記事ですが、引っ越した時に落っこちてしまっていたので再掲しました。

はいはい~~

つまり、アレですね。。。ジェジュンさんが乳バンドをいくら身につけても、ダメでしたって事っすよね?『Back Seat』…

ええ、まあBack Seatときたら「アレ」でしょう。「アレ」以外解釈仕様がねーしww 同タイトルの数々の英語楽曲も、そういう歌ばかりだわ!!ですw 

でもさ、確かに、韓国ガールズグループのエロエロダンスは、いいのけ?

という発想は、別に間違ってはいないとは思いますやね。。。エロエロだもんw確かに。

あの、ケツを突き出す動きは、アメリカじゃストリッパーのダンスの決めポーズだし。。

そういえば、日本も90年代はセクシーガールズグループが大流行でしたが、今じゃ、エイベくらい?しかセクシー系ってやってるとこ無いのかしら?音楽MVなんかでは??

というところで、音楽シーンにおける性描写という事を考えてみるのに良い動画が有ります。

英語ですが、それほど難しくないと思いますのでどうぞ。

まずは、マイリー・サイラスのMV…


Miley Cyrus - Wrecking Ball - YouTube


Miley Cyrus - Bangerz Tour - Full Preview (2014 ...

それから、これは予告というかプロモ用なのですが、Dr.サット・ジャリー(コミュニーケーション、メディア学博士)監修の動画。ミュージック・ビデオのポルノ化進行と平行して起こる女性の身体の「物体化」「商品化」「所有物化」を扱っています。Dreamworld3.


Dreamworlds 3: Desire, Sex & Power in Music ...

確かに、米国のミュージック・ビデオの撮影監督にはポルノ、アダルトフィルム業界出身の監督が多いです。これはその昔は、低予算で制作するMVにはちゃんとした映画監督なんかは見向きもしなかったからという経緯もあるのでしょうが。で、その出演者にもポルノ女優が多く採用された。(今でも、かなり有るもようです。。)

しかし、そういうMVが流行しだし、主流になってくると、今度は女性アーティストが自らポルノ紛いの演技をし始める。。そういう構図も出来てきます。ブリトニー・スピアーズしかり、マイリー・サイラスしかり。。。最近ではビヨンセまでもかなりセクシーな動画を作ってます。(ビヨンセについては、「やらなくていいことをやった」的な評価が非常に多いですけど。。。)

そのストーリーとしての2大典型は、男性アーティストが中心のハーレム、もしくは女性アーティストの一人エロ、とこうなっております。いずれにしても、女性はいつも男性を「欲望」しており、男性を「待って」いる。当然、「No」は無い。女性の身体は足、胸、唇、臀部、と分断された部分ショットが多用され、男性からの「視線」を受ける。まるで意思のない物体のようにカメラは肉体をその持ち主から切り離します。

確かにこれはMVの中の「ファンタジー」では有るのですが、これが現実に漏れだして来るんだとDr.Jhallyは指摘しています。たしかにね、子供のダンス教室でもセクシーダンス、とか?エクササイズ教室でポールダンス、とか有りますね。で、有名ポルノ女優さんのエクササイズビデオなんかも売ってたりもするもんね?そして、そこにも音楽はある。。ということは音楽を「透過」して売られてるのは「セックス」ていう話になりますね。

*余談ですが、最近は性器の形をポルノ女優のように「お直し」(Female Genital Cosmetic Surgery)するのも流行りなんだそうです。

簡単にまとめると、セックスとはこのようなもの、女の身体とはこうあるべき(例えば砂時計型)、女のセックスに対する態度、男の女に対する態度とはこうあるべきというような事がそういう「商品」を通じて社会に刷り込まれるというか、人々の意識に浸透させられる。物凄いプッシュ(圧力)です。そういう影響力が音楽MVには有る、と言うことになると思います。

そうしてそれがパーティや酒場で使われれば、アルコール消費につながり、より露出の激しい洋服を売る(ちょっと前までならアバクロンビー、今ならアメリカンアパレルが「セックス売り」アパレルブランドとして名高いですね。)大企業アパレル販売につながり、ダイエットピルや、バイアグラまで、範疇に入って来ます。全てがシステマティックに繋がり合う。

てか、「音楽」どこ行った?って話ですけどね。。。

こうしてみるとK-POPのMVやダンス、パフォーマンスには、日本もちょっと前まではそうであったように、米国ミュージック・ビデオの影響が色濃く出ている気がします。まあ、このDr.Jhallyのドキュメンタリー自体も2007年のもので、MTVとすったもんだも有った衝撃のドキュメンタリーでしたが、そこから現在は、MVのポルノ的な表現は大分治まってきてる気はします。

ただポルノ業界自体はロビイストを得て、最近拡大傾向に有ります。ネットの普及で莫大な収益が見込めるためだとか。。。

自分的には、性的な表現自体は、全然許されていいと思うんだけど「これがセックスだ」とかいう押し付けはごめんなさい、です。うん。ポルノで鬱陶しいのは、そういうはんこで押したような定形表現とマクドナルド性だわ。その中には女の従属性というか、必ず女はいつでも「用意オッケー」で喜んで男を受け入れるってのもあるかな。。。きもーー。。。

ところで、、、、

JYJの『Back Seat』MV、上の動画に出てくるのと比べてどの辺がやらしいのって話なんすけど...なんか、ほぼやらしくは、、、無いよね?え?アレだったらば、スリスリのヨジャがらみダンスのほうがやらしかったwん?ユチョンの声がやらしい???うーーーーん。。。ま、それは、否定しにくい(笑)

てか、言葉、詩がやらしいってことだったっけ?言葉責めww

つっかジュンス様は「どうせ出られないんだから、放禁だろうが関係ない」ってか?

チーーーンってかんじですなww

参照:

Sara Rodrigues. From Vaginal exception to exceptional vagina : The biopolitics of female genital cosmetic surgery. Sexualities. 15/7(2012).