夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

女は男のまなざしの外側に存在できるか?-『Mad Max:怒りのデスロード』と『PitchPerfect 2』見てきました。

ロードショーも後半になれば、どんどん格安映画館に降りてくるのがアメリカ。なので、待ってましたとばかりに梯子で二本続けて見てしまいました。丁度上映時間も5分位のズレで、待ち時間もほぼ無く見ることが出来ました。

*以降はネタバレの気にならない方、どうぞお読みください。

まずは『ピッチパーフェクト2』なんですが、はっきり言って前作が期待を上回って面白かっただけに少々苦しいな、という印象でした。相変わらず大学アカペラコーラス・グループ、ベラズの歌も踊りも楽しいですし、前作同様に普通の女子大生のライフクライシス(今回は就活、オトナになることなど。)、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、母娘の問題等が含まれてもいるんですが、せっかく今回は「インターナショナルコンペティション」がメインの題材だったのに、ナショナリズム問題が全く解決されずに、というか解決を試みた形跡すらあまり伺えず、単なる「競争」として描かれてしまった気がします。しかも当初ドイツに負けてたのに結局それを跳ね返して最後にはアメリカが勝利する(のを示唆する)的な終わり方、、、パトリオティック過ぎないか??

ところどころ、良いキックは有ったんですが。。。

例えば、今回予告編にBIGBANGの曲が使われた事もあったりして、じゃあコリアンボーイズがかっこいいパフォをするのかな?とちょこっと期待してたんです。が全然出てこない。コメンテーターの毒舌二人組が次々とツイッターなら炎上必須のコメントを垂れるのが、前作からの人気要因でそれは今回も面白かったんですが、その二人が今回会話中で、

「韓国?誰が韓国なんて気にするんだ。焼き肉(BBQ)なら気にするけどな!」

てなことを言っちゃう。苦笑、ですね。。。

つまりこれはアメリカ Vs 世界の対峙の図をここに描いてるとみればいいんでしょうか?ですが、今回ドイツが敵役って事におおきなクエスチョンマークがついてしまいました。もちろん大戦中はナチやジャップがハリウッド的には敵のアイコン。冷戦でソビエトに移り、イスラム圏を通って、北朝鮮、中国と、敵アイコンの変化は続いてます。でもエンタメワールド的には、ここでインドか、韓国あたりでてきても良さそうなのに、出てきたのは「ドイツ」?

上のコメントは自爆ギャグなのかなんなのか?

結局自国と「自国の敵」だけしか気にしていないというか、アメリカの日常そのまんまというか。それ以外は全て「Other=他者」化されている。それが出ちゃってる(出してる?)ようです。確かに上記のセリフは他者化された文化をどのようにアメリカが消費しているかという良いサンプルではあります。つまり「他者を食べる」という行為ですね。と同時に自国が世界から嫌われているという自己卑下の表現も上の二人にさせていますが、これまた「弱者男性」の叫びとダブって見えたりもします。アメリカのパワーダウンによって相対的に「他者」の地位が上がった事もあるでしょう。

そうそう、「他者を食べる(消費する)」ということについては以下の記事が面白かったです。

www.warscapes.com

他国の文化を知ること、が「食べる」事に紐付けられているのがよく分かります。というかそれは「そこで終わる可能性」ということでも有ります。食べる、消費するという行為によって、なるべく簡単に、深入りして傷を負うこと無く他国の文化を知った気にはなれますよね。ですが、自分自身ももうそろそろ、初対面の米人に会う時に寿司トークはたくさんだな、という感覚を感じてます。自分が寿司ネタにでもなった気分が追加されてくるのです。消費する側とされる側、主体と客体、何より他者化された自分を感じずには居られないからというのも有りますね。

もう一つ、多分今作でいちばんのメインイベントであるところのファットエイミーの股間ご開帳事件、ですが、続けて書くつもりの『MadMax4』との思ってもみない共通点がここでした。シルク・ドゥ・ソレイユ、そして女性器、です。

ファットエイミーがベラズの舞台(大統領の誕生公演)で天井から布で吊るされながらサーカスばり(シルク・ドゥ・ソレイユのおはこパフォですよね)のソロパフォーマンスをするのですが、この時衣装の股の部分が裂け、下着もつけていなかった為に性器を観衆にお披露目してしまうはめになります。この一件でベラズは責任を問われ、公演停止を言い渡されてしまう。故意ではない。しかしファットエイミーはなぜかジャネット・ジャクソンがおっぱいポロリした時の謝罪挨拶をまねて挨拶。女はなぜ自分の性器を恥ずかしく、悪いものだと思わねばならないのか?(男性器は、対照的に可愛らしく無垢で、愛称で呼んだり、あるいは雄々しい銃器、武器のイメージだったりします。)

この疑問にエイミーの恋愛模様を通して答えようとしたのかなあとは思うんですが、そのへんがスッパリと描ききれて居なかったような気がします。エイミーが股間を皆に晒しても恋愛を全うできる。。。それって何かの答えになるのか??結局わたしとしては疑問は疑問のまま残されているように感じました。エイミーの相手役のトレブルメーカーのバンパーアレンが、もう少し明瞭に“He for she"を打ち出してたらよかったのに、残念ながらそうではなかったですね。なんとなくもやもやしたまま次にいきました。

 

『ピッチパーフェクト2』のもやもやは『Mad Max:Fury Road』で完璧に吹き飛びました!シャーリーズ・セロンが大好きで、過去にも記事を書いたわたしです。今回も「女戦士」としての下馬評が高い高い!

ravensk.hatenablog.com

 プロメテウスの時も彼女の演技は私の期待値ををうわまわるものだったのですが、今回はそれも軽く凌駕してしまいました!!!もしかしてフュリオサという役や今作の演出が彼女にぴったりと当てはまってしまったからかもしれませんし、何より主役であるはずのMaxが完璧な”He for she"!!

映画見る前には、こんなまとめを読んでまして、、、だから普通のアクション映画の範囲内でシャーリーズ様が頑張るんだな?と思っていた次第です。

リアル北斗の拳!映画マッドマックス4の世界が狂い過ぎ…。【怒りのデスロード感想バイクキャスト】 - NAVER まとめ

 そうしたら、全然違いました。

一応近未来という設定で、確かに狂っている世界観と言えば狂ってるんだけど、現在の世の中が狂ってるのと同じくらいしか狂ってないじゃん?という感想を持ったのです。たしかに怒涛のように押し寄せるアクションとBGM、メカニックのデザイン性など、目を見張るようなイリュージョンが目の前に立ち現れるのですが、その世界と今私達のいる世界は確実に繋がっていると感じさせる。それは、そこに提示された女の(そして男もですが)生きづらさ、と抵抗のためであるのかと思いました。

シャーリーズ・セロン自身もそのような事をインタビューで語っています。

Mad Max: Fury Road doesn’t have feminist agenda, director says

NationalPost 2015年5月14日の記事より

「この文字通りの砂場(!)で女を演じる事ができたのがすばらしかった。男になろうとしているのではなく。」「この映画はリアリティに立脚していると思う」

Maxよりも彼女のほうが主役だ、という呼び声も高いくらいですが、確かにどう見ても彼女はこの映画でMaxと対等以下の位置ではない。しかもこのヒロインは男性主人公とセックスもキスもしなければ、恋にも落ちません。誰かに裸を覗かれる事も無い。それでも、フュリオサは男になろうとする女ではなく、確かに「女」だと、彼女は語っているわけです。同じように強い女でもシガニー・ウィーバーの場合はエイリアンに宿られてしまうわけですが、フュリオサにはそういった設定が無いし、「男」を欲望している訳でもない。

実はディズニーお子様映画のヒロインには「裸覗かれ」かつて定番でした。ワイブスについてはちらりとその典型パターンをのぞかせているのが面白い。衣装もディズニープリンセス的です。

そしてどうもフュリオサの射撃の腕は、Maxより上のようです。一回的を外した後、お前のほうが上手だからと彼女に譲るシーンが印象的。射撃に関しては、銃器の扱いがセックスやジェンダーと重なります。以前Skyfallの映画記事を書いた際も、ボンドの射撃の腕が落ちてしまっているというエピソードに注目してました。

 

ravensk.hatenablog.com

トム・ハーディ演じるMaxはといえば、はてなでお見かけしたレビューが鋭どかったのですが、精神を病んでいる兆候は随所に散りばめられています。そしてその元凶とも言えるところに「娘」の影が見え隠れします。何か、彼が娘に「復讐」されて居るようにも見えます。

マッドマックス 怒りのデスロード:一度でも精神を患ったことがあるなら、もう一度見るべき映画 - farsite / 圏外日誌

この映画をフェミニスト寄りの映画だ、我々のマックスを返せとわめきたてているメンズリブ団体も居るそうで、たしかにフェミニスト、というよりは、ジェンダー/セクシュアリティ視点を多肢にわたって援用した映画であるとは言えると思います。それもそのはずで、かの"Vagina Monologues"【おまんこのひとりごと】の劇作家として有名なイーヴィー(イヴ)・エンスラーがコンサルタントとして招聘されていたということです。(以下記事参照)これが、ピッチパーフェクト2との「女性器」かぶり、です(笑)。男性ジェンダーの病みと同時に、女にとって自分の身体は誰のものであるのか、どんなものであるのか、問われるような場面はかなり出てきます。

www.npr.org

まずは、ブロイラーよろしく繋がれた乳母達が強制的に搾乳されている様子。乳房は食料としての存在でしかない。翻って、男性戦士ピープルイーターが、乳首ピアスに乳首の周りをカットした衣装を身につけチクニーしてしまう場面もあり、ここは性的な存在としての乳首を象徴するのかなと思いました。城塞から逃げ出したワイブス達が次々に断ち切る貞操帯にはギザギザの歯がついていました。女性器に歯という映画も有りましたが、ここからは女性器に対する恐怖とそれに対する抗いを感じました。逃げるワイブスたちを追うイモータンジョーが叫ぶ「その女は俺の子を身ごもってるんだぞ。俺の所有物だ」という言葉。それと対称を為すのがワイブスたちの「私たちはモノじゃない」と言う叫び。

この映画はディストピアサイファイの設定で、それは前作から受け継がれています。その中でフュリオサは強い女兵士として性奴隷状態のワイブスを救いだして「緑の地」(フュリオサの生まれ育った地、理想の国?)に逃がれようとする。この「女が女を解放するストーリー」が素晴らしいという声も高いのですが、それが逃げることから闘うことに転換した地点、フュリオサが、Home、つまり理想郷(ユートピア)探しをやめる部分が私としてはいいなと思いました。たしかに逃げることは男女というジェンダーのDualismの永遠化かもしれない。この部分で象徴的に使われる方角ですが、緑の地は東、イモータンジョーの支配するシタデルが西、です。「オリエント」としての「女」が支配する「西側」に立ち向かう。

Maxが反撃が最初にすべき事じゃないかと説得を試みた部分も良かったし、男性看護師よろしく戦士のフュリオサを看護したシ-ンもじんと来ました。キスもセックスもない。でも「輸血」が彼とフュリオサを繋ぐ。。。完璧な“He for she"といったのは譲り、助け、寄り添う、こんな場面の集積によるものです。

なお、この映画には女性の周縁化の他に男性達が多分にホモソーシャルな社会化によって社(軍)畜化される様子も描かれ、それは自爆テロのようでも、カミカゼ特攻隊のようでも有ります。そこから目覚めるニュークス役のニコラス・ホルトはミレ二アル世代にとってゾンビ映画『ウオームボディーズ』などで注目株の役者さん。彼には「女」の配分等到底無い、戦死することだけが期待される下位兵士の役がふられているわけですが、それも現実と地続きのシークエンスのひとつに思われました。

シルク・ドゥ・ソレイユが出てくるシーンはこちらのブログでとてもおもしろくレポートされていました。

最強に優しい"リベラル"な映画『マッドマックス/怒りのデス・ロード』感想 - LOGLOG

サーカスが非常に「性的」であることは、シルク・ド・ソレイユのような洗練されたパフォーミングアートであっても尚且つ継続している。逆にそれだから面白いとも言えます。。。しかし、戦場での性と娯楽のつながりは明らかに性暴力も想起させるものでも有ります。

最後に、私はこれがゾンビの出てこないゾンビ映画であるという気がしました。ゾンビは不死(immortal)であり、死なないゆえに人はゾンビを恐れる。女は命を作り出すゆえゾンビと似たように忌み嫌われる。また戦場における女性への性暴力を指して「女に対する戦争」と表現した学者もいます。女性器への憎しみは、敵の所有物の破壊の意味と共に、命への恐れに繋がって居るのかもしれません。

 

10年続いたこと

東方神起が日本でデビューして10年経ちました。

で、その10年間、ずっと続いていた事がある。

それが他でもない、ファン(及びアンチ、、、その他諸々属性のネットユーザーず)からの韓国式表現でいうところの「悪性コメント」であった、とこないだジュンスさんが言ったわけです。

 

芸能人を苦しめる悪質コメント、JYJ ジュンスも強硬対応へ「10年前から経験して鈍くなっていた」 - ENTERTAINMENT - 韓流・韓国芸能ニュースはKstyle

 

韓国のアイドルとしては第二世代にあたる彼らはデビュー時からネット戦略を駆使してスターダムを登った世代でも有ります。だからそれらのネットを使用することにまつわる現象は彼らにとってはあまりにも当たり前といえば当たり前、の日常だったのかもしれません。

勿論彼らもSNSを自身で使って来ており、それが広報に役立った面もあれば、ある時は炎上、発言が批判にさらされたりもしてきたわけです。それが日常であれば有るほど、当たり前に誹謗も中傷も受け止めて来たという事ですね。

[更に追記しておくならば、ジュンスが記事中でコメントしている様に建設的な批判と人間としての尊厳を傷つけかねないヘイトコメントとは峻別せねばならないのですが、その辺りが日本なり韓国なりのネットの言論状況ではつい最近に至るまで、きちんと論議されて来なかったと言う事が有りますね。アイドルは公人であるからそういうコメントに耐えなければならないといったまことしやかな論さえあった事もまだ記憶にあります。]

よく、私は彼らのファン周りで起こったことを日本でのヘイトスピーチ論議の盛り上がりに重ねて見ることが有ります。掲示板といういわば「クローズド」な媒体からTwitterのようなオープンな場にヘイトコメントなどの戦場が移ってきたこともあり、ようやくこの2-3年で、「ヘイトスピーチ」が単なる意地悪な言葉ではなく、その言葉によって相手の人権を侵害する可能性のある話法や内容を含むコメント群である、と認識されてきたようですが、彼らの訴訟の起きた時点ではそのような認識すらほんの一部にしか見られなかった。それこそ、ヘイトスピーチに対するリテラシーは格段に低かったと思われます。

訴訟の際に彼らに対して起こったバッシングが酷かった事は有名ですが、実際はその前にも後にもこれらのヘイトは間断なく彼らに対して続いて来たことである…。そのことをもう一度私は思い返してしまいました。

なぜなのでしょうね?

やはりそれは、彼らが非常に「性的」な存在であって、ファンは愛しながらも蔑み、尊敬しながらも消費するというアンビバレンスに捕まえられているから、のような気もします。(*性的という意味には「差異的」であることが大きく関わります。)

 

美魔女と東方婆

美魔女が「本当は若くないくせに、若く見せて卑怯。しかも結局ホンモノの若さには勝てないだろう」ということで「反則化」されて暫く経過しました。メディアの中で行きどころを無くしたオバサン達はどこに、、、

そんなところに「東方婆」記事が(笑)。

東方神起ユンホの痛いファン「東方婆」がソウルで迷惑行為 - ライブドアニュース

入隊直前のユンホをどこまでも、まるで小娘のように追っかける妙齢女性に対する揶揄なのか、ユンホ人気の広報なのか、はたまた他グループファンの陰謀?なのか、意図は今ひとつ分かりかねますが、つまるところ「婆に嘆息する設定」であることは確か。私はこの記事を見て、ちょっとおもしろかったんですね、、、とうとうまわりまわって「東方」差別が出てきたかというところで。でも、ここでの問題は「婆」に集約されていくでしょう。その昔韓流「婆」がたどった道と同じです。昔ヨン様ペンにされていたことが世代交代とともに東方ペンにとうとう回っちゃった。。。別にユノの現場に張り付いてたのは婆だけじゃなかった筈なんですけども(笑)

単純な「ホモソ的オバサン排除」もいままでイヤと言うほど見てきたんですが、オバサンによるオバサンの排除というのもまた有ります。「韓流オバサン」というレッテル貼りなんかもその一つと思いますが、特にトンペンにはそういう人々が目立ってました。まずはとにかく、他のアイドルグループと差別化したがる。嵐ファンと身長問題でぶつかったり、SMAP中居君にいちゃもんを付けてみたりと枚挙にいとまはないくらい。トンペンによる他韓流ペン、他アイドルファンへのマウンティング行為、言動は結構なものがありました。わざわざ自らのブログなんかに分裂後の立ち位置表明と同時に「自分は韓流ファンではないこと」とか「東方神起以外にアイドル等に興味はない」こと等を表明されている方もちらほら以上にお見かけいたしますし。

そういう分類に入れられることを避ける、恥ずかしい、と言う感じなんでしょうし、また2012年以降は、嫌韓がデフォルト化するにつれ、何かこう自己防衛しないではいたたまれない雰囲気もあるのかもしれません。トンペンブログから一気に嫌韓ブログになっちゃったのもお見受けしましたし、その間を苦しみながらいったり来たりしている方もいらっしゃいます。

その方たちのブログ等を読んでみると、内容は韓国のファン文化がおかしいとか、韓流ビジネスの方法論などへの批判あり、愛国ポルノ的主張をする方も居ればしない方も居ますが、全般としては韓国及び韓国文化に対する批判的な態度、嫌悪はかなりの率で見受けられ、でもそのなかで東方神起だけは他グループとは違うという主張(推しメンバーの親日に対する信心みたいなものも有り、他メンの反日をあげつらう場合も有り)、信じていたいという気持ちが入り乱れたり、またいわゆる日本の「韓流ペン」が如何に自国を顧みず韓国に利しているか、そのとりがちな行動にたいする揶揄だとかが挙げられて居る事が多いです。とかく「覚醒」とその「理由」を掲げがち。2ch的というか?愛国とトンへの愛に板挟みにされ愛国を取り挙句にアンチに転ずるとか見ていて痛々しいのですが、愛国奥様世代が中心購買層だからか?

私自身はもとよりのROM専気質のせいか、そういったファンの言動に同調は難しかった面が有りますが、ほっつき歩くうちに、「覚醒」を掲げるブログ等でよく見かける文言の類型として、「リテラシー問題」の指摘があると気づきました。

リテラシーは簡単にいえば情報を読み解く能力、でしょうが、でもその言い方から漏れでて来るえも言われぬ見下し的な感じはどうしても気になる。何のためにこういうことを言い出すのかな?というのが素朴な感想で、、、立場の違いをリテラシーの差に収斂させたりすることは勿論おかどちがい、と明瞭にいえると思うのですが(自分と同じ読み方を出来ない場合をリテラシーの優劣で表現する)、、、、それ結構多発してない?

そもそも情報が元々韓国語と日本語からの発信。翻訳を介さないと行き渡らない事は多いうえ、二つの言語以外にも訳された情報が飛び交うファンダムで、リテラシーを一つの言語の側からだけ計測しようとするのはいかにも無理が有ります。しかも韓日、プラスアルファまで含めて、相当な語学力が有ったとしても、その人達が皆同じ立場に立ってるわけではないし、翻訳を読み込むリテラシーだってあります。

そんなこんなを足し引きしてみたら、そんなに違いますかね??? 韓流ペンと非韓流トンペン?ドラマペンと、アーティストペン?

確かにリテラシーは人によってまちまちであり、ギャップの存在はあるでしょう。でもそれが存在するとしても、わざわざ持ち出す事にどういった意味があるのだろうか?

一言で言えばこれは「空気」の存在を後ろ盾とした「差別的フレーミングの一種」でしょうが、考えを巡らせる中で、想像がつきやすいと思ったのが、韓流アイドルの消費行動をジェンダー視点に置いてみる事でした。

つまり、この状況はミソジニーに似ている、と言うことです。朝鮮半島と日本の長い相互関係の歴史の中では特殊な位置づけとなるかもしれないのですが、時代を近現代、範囲を東アジアに限っていえば帝国日本が男性ジェンダー、半島が女性ジェンダーを担うと置き換えることが出来そうです。韓流はそれ自体が女性的であるわけですね。ですが、面白い事には、実際の韓流消費シーンは女性が男性のセクシュアリティを色々な意味で消費する色合いの方が強く出ています。

そしてミソジニーは女性性嫌悪で有るのと同時に、弱者嫌悪でも有ります。例えば女性アイドルや風俗サービスなどを見ると分かりますが明らかに男性消費者が対象を金銭的に支配し根底で嫌悪しながら消費するという構図が存在します。

しかし「男性」の支配力は経済の変化により相対的には弱まりつつあり、その中で出現してきた「弱者男性」は、自分こそが被害者ではないかと叫び始める。既得のはずのホモソ権益が自分にはちゃんと分配されないではないですかと。嫌韓とミソジニーは兄弟の様に似ているなあと思いました。

ホモソが崩壊を始めるにつれて、ますます肥大化する「弱者男性」視点を取れば美魔女なんて若さに弱い男性の弱点に付け入って騙そうとするだけの「悪」だし「東方婆」は旦那の金を韓国につぎこむ不貞。繁殖期を過ぎても女でいたい魔女は狩られ続け、オトコを消費し続けたい婆は山に捨てられる事が、正しい『空気社会』的リテラシーなるものなのか?

でもって婆が婆をリテラシー差別する根底にもこういったミソジニー的空気の存在があるんだろうな、と思います。

ユンジェの力学10 喪われた父【乳】としてのユンホ

ゆのっしがもうすぐ「喪われ」ます。

エンギでも無いです。ただ単に兵役行くだけです。

昔、ヒチョル姐さんが兵役行く時に「短い死」だと書いたんですけど、今回も兵役ということに関しては同じように思ってます。

「ジェジュンというアイコン」と「ヒチョルの短い死」 - 夢のみとりz

 昔の記事を読み返すのはやたら恥ずかしい(苦笑)

 

ところで、ユノペンの方はタイトルでとっくに気づいてるでしょうが、今回の記事はこれまた以前書いた以下の記事の続編「のようなもの」です。もう3年も経つんだ。。はや!

 

ravensk.hatenablog.com

 で、このタイトルなんですけど(笑)、最近読んだ『男のカラダはキモチいい』(KADOKAWAメディアファクトリー:二村ヒトシ、岡田育、金田淳子(著))ー

 

 

オトコのカラダはキモチいい (ダ・ヴィンチBOOKS)

オトコのカラダはキモチいい (ダ・ヴィンチBOOKS)

 

 

この内容と私が、というよりかなりの率トンペンの皆様が感じてらっしゃる部分が重なりそうだったのでつけてみた次第でございます。

ユンホの乳、すなわち「ユノパイ」ですが、TwitterではBカップとしてバズるなど最近超人気のお品。彼の豊かな胸元は以前から話題ではあったものの、「股間」には負けてました。だいたいが東方神起と言ったら、彼らのカラダのパーツが異常なほどに対象化されてSNS上で消費される事が特徴的でしたが、これは後発のK-POPグループに綿々とつらなる現象であると今は眺めることが出来ます。ユノパイ人気は、オトコのカラダに対する、淑女の「まなざし」の変化のフロントラインと見ることも出来そうです。

商品としてのユノパイは、そのボリュームと柔らかそうな質感が人気の源のようですが、ユノ溺愛ペンは、結局全パーツ愛してるので対象化であって対象化でないような不思議な感覚を覚えたりします。それというのも、もしかしたらユノにまつわるもう一つのイメージ、「父」に由来しているのかもしれません。

腐女子ペンがめちゃめちゃ多いトンペン界わいですが、Fanfictionでは、ユノ氏は「総攻め」、ジェジュンさんが「総受け」となることが多かった。なかでもユンジェCPは「看板」夫婦でしたのでジェジュンがママで、ユンホがパパっていう設定のFFはそれこそ限りないほど数が有りますもんね。雑誌のアンケートでもユンホ、理想の父に選ばれてましたよね?太陽のように暖かく、明るく、強く、包み込むような、とかなんとか、、そんなイメージでしょうか?オフショとかから、郊外のニューファミリー臭が漂ってくる、そんなユンホ、ユンジェ夫婦と3人の息子たちのイメージ。

翻って、こんな旦那様や父親。。。まあ「現実的」じゃない事は確か。。。理想だからね!で、父親が「薄い影」になっちゃって久しいわけですからね、日本では。その喪われた父、という「穴」を埋めるのがユンホ、、、ってわけですが、そのユンホがこれほど見事な「パイ」を持ってたって事にアンテナが、びびび、と来てしまったわけなんですよ。もちろん彼には見事な「股間」もあるんですが。。。

上で紹介した『オトコのカラダ…』で、二村ヒトシさんが、盛んに言ってる攻めの両性具有性、的な感じがぴたっと当てはまりそうだと思いました。進化によって「喪われた雄っぱい」と「喪われた父」とが、ユンホによってここに会してしまったってかんじですかね。ウホッw あ、しかも本来腐女子の「王道」的なお約束で有ったはずのリバへの嫌悪、もこんな見事なパイがあったらねえ、、、なし崩し的にゆらいできて当然の気がします。

あ、で、ジェジュンさんについても、別の意味で非常に胸元が気になりますので、分割して書くことに致します。(三次元BLのカリスマとまで言われた彼らが「お約束」を次々とぶっ壊していったのは、もはや周知、としておきますねw)

 

2013年5月某所にて書いた記事。

昨日、JYJのLINEに上がった、音声メッセージ。 ジェジュンさんの挨拶のなかに、4、5、6の数字。 二人のドーム公演のゲートは、右に傾斜した時計のデザイン。地中に埋まったかの如く、見えない文字盤の数字は、4、5、6であった。 私は彼がどんな気持ちでそれをしているのかはわからない。 ただ、やはり、もしかしたら彼は「東方神起」を盗もうとしたのではないかという感覚に襲われた。

東方の神が起きる、、、この名称から見える「太陽」。 楽曲の「ライジング・サン」を引き合いに出すまでもない。 日いずるアジア。。彼らに託された思いを象徴するコンセプト。 その「太陽」を、彼はSM社という会社から、スマン会長から盗もうとしていたのではないか?そして、それは「彼ら自身」を盗み出して、自分たちの手に自分たちを掴むことでも有ったのではと思う。 だが、今やその野望は潰えたかに見えている。 JYJのコンサート後、彼らに会えて幸せなファンを横目に、JYJとしての提示力の弱さを嘆く声も大きかった。プロデュース力の圧倒的な欠如と見える事も確か。入れ物として、ブランドとしての演出は、残念ながらベク氏はSM社やエイベックスと肩を並べるほどにはうまく出来ていないように言われている。(追記:しかし、これは日本あるいはアジアの芸能ビジネスの構造上の問題ではないか?と最近は考える。これを書いてから随分と日が経って、彼らはそれなりに努力もしている。だが、グループとしての彼らはすでに、2012年11月、裁判終結と同時に和解と言う名の「周縁化」を施されていたのではないか?今般JYJ法が議会提出された事も其れを裏付ける様に思われる。)

 

三人は5人の東方神起の亡霊か、ゾンビか。。。個々人の活躍は目覚しいものがあるのだが、いったい、彼らJYJは皆のいうように、東方神起と肩を並べる、対等な位置関係を持った「ブランド」であるのか?韓国の行政が介入した裁判の決着のしかたから言っても、ふたつのグループは、別のブランド、別のグループ。。。これは仕方のない形ではあるのかもしれない。そして、この形は、分裂、対立したふたつのファンダムが、双方とも主張し、この3年固定化が図られて来た。 ただ実のところ、成り立ちから言っても彼らは並列する「ブランド」などではないと私はどうしても思ってしまう。JYJとしてのグループコンセプトは無いに等しく、単に個人のイニシャルを使ったユニットの名称。 これを二つの別個のブランド、とする事は商慣習的には正しいのかもしれないが、暗く照明の落ちてしまったその根元をみると、ねじれたまま固定している、というふうに私には感じられるのだ。 そして、私から見たら「ねじれ」と思える言論の固定に対して「電通でも覆せない」と、太鼓判を押したのが、かの澁谷知美先生のウェブ論座掲載の文章であった。二人のオンリペンの方に立場をとって書かれた文であるから、止むを得ないし、特に私としても再結成をどうたらという気も無い。商機がなければ難しい事であろう。しかしながら、ファンが「正しい・正しくない」という言論を表現芸術の領域に持ち込んで抗争しているところにおいて、アーティストの活動の可能性まで限定しうる「理由」を持ち出したのは、その「理由」がどんなものであってもフェアではないと私は感じざるを得なかった。 (皮肉にも、そのJYJに電通が付きコンサート開催、そして無視できないボリュームをもって未だに「5人」を掲げるファンがゾンビのように存在しているのはなぜだろう?「正しくないファン」が、こんなにも。。。。)

 

大きな声で言わずとも、JYJはJYJという名称でいる限り背後にfrom東方神起を必ず背負う。そう思って見ている。ジェジュンさんがTVfXQを背負っているのと同じ事。同意も、異見もあるだろう。単なる私見である。 

(追記:2015年現在、JYJに対してのファンからの「箱」としての需要は細ってしまった。一つ前の記事に書いたようにファンの分裂化が招いた事態ということが一つ、東方神起以外の「箱」は必要なく、あくまでも「個人」としてのみの彼らが存在しているということでもあろうか。そしてやはり、二つのグループはそもそも並列などでは無い。なるべくしてなったとしか言いようは無いが。。。一方で、ユンホの消えた「東方神起」はSMという「国家」全体に浸み出していく様な印象。結界が崩れたという感覚を持った。)

 

東方神起とは?

東方神起

東方神起とは(ハングル表記) 日本語読みは「とうほうしんき」 HOTやBoAらを輩出したSMエンターテイメントより2004年1月にデビューした韓国の男性5人のダンス・コーラスグループ。10代でありながらアカペラまでこなし、メンバー全員がリ.. 続きを読む

はてなではこういう感じなんですね?

過去には色々書いてきたのですが、現時点においては今更五人だとか今更2人だとか、そんな事を言い出すつもりは自分は全くないです。東方神起とJYJを並列も出来ないと思ってはいます。芸能界の構造的な問題なので、もちろん日本的システムに慣れている場合は、そちらにどうしたって正義が宿ってしまうんじゃないかなと思います。現実が正義だっていうね。。。

何を言ってるのかわからないとお叱りを受けそうなので、後日改めて記事にしたいと思いますが、今日言いたいのはここにある事は彼らの歴史の一コマですよねって事です。上書きする事、黒歴史として葬ったり軽視する事を望むファンも多くいる事は知っていますが。

歴史と感情ってよく絡みますね。まるで慰安婦問題みたいなもんですな。。奴隷だの奴隷じゃないだの、捏造だの嘘だのね?政治のマクロとミクロが重なり合うのが東方神起現象というものでしょう。

お引越しと『立たざる場所』

某ブログサービスから引っ越して参りました。

まだ、はてなに慣れませんが、アカウントをつくったのはかなり昔の事なのと、読者としては色々読み散らかしていましたので、全体の雰囲気はおなじみな感じです。引っ越しというのは、ブログ等の場合はバーチャルなわけで、私自身の物理的、地理的な位置が変わるわけでもなんでもないですが、サービスが変わることによってそのバーチャルな環境も「実際」にいくらかは変わったりします。ネットはヴァーチャル、と物理的な人生から切り離す考えもあるでしょうが、ネットは独立した世界などではなく我々の現実の中にこそ存在しているもの、と最近は考えるようになりました。そのことでもう一度思い返すのが、自分自身の立ち位置と言うことです。

ブログにしても、ツイッターのようなSNSにしても最近はやたら発言に対するPositionalityが問題になる気がします。いわゆる左右のレッテル貼りなども、最初の段階から互いのポジションを読みこむことで、内容よりも先にその人物を批判の的にできる便利なツールなので、特に政治的な話題でない場面でも、SNSなどではよく見られるんじゃないかと思います。考えるとSNSは戦場みたいなものです。

政治といえば、“Personal is Political"は、第二波フェミニズムから第3波にかけて良く登場するスローガンですが、「個人的なことは政治的でもある」という考えは、もちろん女の生きる世界が「私的」な領域(つまり家庭や給湯室)にとどまっていた事に反対する表明でもあるし、実は私的領域と公的領域はどちらか一方の優位性含めて、それほどくっきりと分けることができるのか?という問いかけでもあると思うのですが。自分の「立場」に意識的になればなるほど、政治的にならざるを得ない。っていうか、政治的であることが大げさではなくなってきてるのが今の世の中だというか?

前の場所でブログを書き始めた時にアメリカでは本当にだれでもが政治に一家言あるんですよ、なんてしたり顔をしていたらあれよあれよという間に日本も同様になってましたが、トンペン界隈では、政治的な動きはもう随分前から当たり前に見られていたことだと思っています。つまりファンの戦闘状態ということなんですが。その基盤に「立ち位置を明らかにする」ということが有ったんじゃないかな?

あたかもネトウヨとヘサヨの激突みたいに、お互いの立場を攻撃することはもちろん、自称とは違うレッテルが貼られて、それを攻撃するなんてケースもまま見られたことでした。これはアイデンティティ・ポリティクスのようなもの。。。のようなものというよりそのままですが、当事者は不在というかそのポジションは盗まれたまま今日まで至っています。

いずれにせよ立場を明らかにというのは、 差異を明らかにして攻撃目標や方法を定めたり、排除したり、敵味方を分かつために有効でしょう。でも、どんなに味方だとして内側の均一化をはかって一時的にまとまっても、人間まったく同じ考えを持って居るわけがないんで、同一化や均質化には無理が生じます。そうなれば、より小さな差を問題として、内側から分裂し、さらなる戦闘が産まれる。いまのトンペン界(JYJペン含む)というのはまさに、そういう状態であると言えるのでは無いでしょうか。。。

棲み分けとは体のいい言葉です。ですが曽野綾子さんの例を引くまでも無く、つまりはアパルトヘイトです。傍から見たら、同じような趣味嗜好を持った人々が、よく分からない細かい論点にこだわりあって戦いを続け、あまつさえ論点を増やしていってもっと分裂していく、怖くて濃すぎるファンダム、でしょうね。

自分自身、ここに来てみて、はじめて自分の「立たざる場所」を考えて見たところです。実は自分の立っている場所をよく知るには自分の立っていない場所を見ることが必要ではないか。。違うことは前提ですが、違うことを理由に遮断すればそれでいいとも思えないからです。きわめて基本的ではあるとは思いますが、色々な方の意見が聞きたいな、と改めて思いました。自分自身の立たざる場所、に立っている人たちの声をもういちど聞いてみるべきではないか?その場所には自分が立つことは出来ないとしても、想像してみることを辞めない為に。。。