夢のみとりz

見取り図を書いたり、看取ったり……黙って見とれ?はいはい。。。

「私」が東方神起を「消費」する理由(3)OはオリエントのO :帝国、共和国、韓流&非白人マスキュリニティ

続きです。(2)はこちらになります。

性や愛といったものを商品にしてしまって良いのかどうか?といったきわめて基本的で倫理的な疑問を不問にし たままで、世界は益々グローバル化(消費社会化)していきます。アイドルなどの感情労働、あるいはセックスワークにしても実はそれに従事する人の問題ではなく、その構造自体と消費するほうの問題でしょう。映像作品、CDやライブが滞りなく消費者に届けられる、それ自体は「資本主義の正義」と言えますが、それだけで良いのか?商品が存在したりしなかったりする事は商品の自己責任であるのか?その陰で生産過程や中間に搾取が起こっていないかどうか?

皮肉にもそういった「グローバル化」によって私たちは自分の「欲望」と向き合わざるを得ないという事が実はあるのではと思います。「女」とその「身体」は歴史的に交易され*1消費される客体である事が男性よりは圧倒的に多かった。おそらくはその経験ゆえに、いざ男性性が商品として消費してくれとばかりに目の前に差し出されたときに、立ち止まり躊躇ったり、考えたりする。それは「しなくてよいこと」なのかどうか?))

そもそも、私たちを動かす「欲望」の正体を私たちは本当に知っているのかどうか?という事も問題の一つです。それは目の前の肉体と交接したいという欲望か、自分の肉体に快楽を得たいという欲望か、それとも再生産(生殖)への欲望なのか?更に「商品」としての女性性がたどった歴史的な運命を見るとあまりいい気持になることがない。見られ、望まれ、収奪され、支配され、征服され、管理され、破壊される。「護られる」のは、敵に「財産」として収奪されることを防ぐためでしかないことが透けて見えてしまう。

実はグローバル化の基底にある「オリエント征服」*2、あるいはもっと新しい言い方で言うなら西欧のGlobal Southへの侵略や植民地支配は、男性による女性性の周縁化と重ねて見られることも多いです。*3

オリエントは肥沃な大地、しかし、一方で文明(理性/男性性)の届かない暗黒(自然)の領域ともみなされ、それが、女性性と重複するイメージでとらえられる。「女」に向かう「欲望」に「支配」や「征服」が入り込むのは近現代化のこうしたメカニズムの影響を無視して語ることはできないでしょう。むしろ、支配や征服、破壊自体が「欲望」であるかのようです。絶対強者である「白人男性」を除いたすべての属性、が「女性化」されるという事は腐女子用語でいうならば、攻めが一人だけの総受け状態のような世界、と言えるのかもしれません。そうすると、例えばアジア人のマスキュリニティなどはこの構造の中で「女」と同様に扱われ、征服されるという事になります。

このような「グローバル」消費とその構造に対する視点としてジェンダーやセクシュアリティの考えを入れていくことは、必要性の高いことだと感じています。資料用として買った本で、ソーシャルメディアを通じて拡散した2000年代からの韓流について書かれた論文集を紹介しておきます。

www.amazon.com

この本の中で、特におもしろかったというか、参照したい論文3本について覚え書きを以下に。

"Hallyu versus Hallyu-hwa: Cultural Phenomenon versus Institutional Campaign" JungBong Choi. p31-52.

  • 韓流というカテゴリーの境界線の問題ー韓国ポップカルチャーなら「何でも」この語に含まれるのでないとすれば、誰がそれを決め、基準がどこに設けられているのか?
  • 韓流モジュールーK-popからツーリズムまでカテゴリ間の多孔性、伸縮性
  • 文化現象としての韓流ー韓国人特有のまたその所有物というよりグローバルにルーツを持つ文化集合体としての姿

”Of the Fans, by the Fans, for the Fans:The JYJ Republic”. Seung-Ah Lee. p108-129.

  • 2009年の(当時)東方神起3人のSMエンターテインメント訴訟劇の経緯
  • アイドル「生産」システムおよびその契約形態のポップ・ナショナリズム(国粋主義)的色合い
  • TVXQからJYJへー若年サブカル層による「抵抗の場」(ファンが業界に反抗する) 
  • ファンが作り、ファンが享受する「JYJ共和国」*4
  • ファンによるConsumerismーマクロレベルの政治とミクロレベルの政治の連動

”R.I.P. Gangnam Style”.Brian Hu. P229-243.

  • 2012年のPSY現象はオフィシャルに「終結」ー「江南スタイル」への欲望は完全に死んだーーーその理由として。。。
  • 刹那的な、一過性の興奮(ウェディングソングに選ばれる率の高さ)
  • (特にネット上で)ステレオタイプのアジア人として周縁化されるー人種差別、メインストリームの白人/黒人音楽ではないもの
  • アジア人男性のマスキュリニティーを「もてない男」「安全パイ」とみなしたい欲望から生じた「人気」ではないかという疑念
  • 名誉の死を遂げた江南スタイル

 非白人女性性、男性性については前にもかきました。ご参照ください。

ravensk.hatenablog.com

そうこうしてるうちにこの間はJYJ法が韓国の国会を通過するという事が起こりました。

headlines.yahoo.co.jp

一方ではファンが分裂に分裂を重ねて箱押しが難しくなるなどの害があるわけですが、マイクロとマクロの政治が確かに交錯しているようです。

 

結論です。オリエンタリズムとは権力あるいは主体が「他者」を東あるいは南と想定してジェンダー化、対象化、商品化、無力化していくプロセスであるとすれば 「アジア人の中年の女」ははっきりと「他者」の位置にいる。でもその私たちが消費する男性性もまた同じ主体によって「他者化」されている。私は「私」がそれを消費する理由をそこに求めます。

アイドルを消費する事は慨然的であっても必然性はないと考えます。そして消費する側とされる側で単に物理的な性別が逆転している事では特段エクスキューズされないと感じるのです。逆に私たちは「消費させられている」。誰に?それは私達本人でもあるのですが、、、

ここからは、次のシリーズFでもっと感覚的に追っていきたいと思います。

Oにちなんだ新旧二つの動画。いずれも歌詞をよく読んでみると面白いです。


[Special Clip] XIA(준수) ___ OeO [ENG SUB]

 


東方神起 / "O" -正・反・合

 
オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)

*1:ゲイル・ルービンxジュディス・バトラー。「性の交易」参照。

*2:オリエント化。エドワード・サイード、「オリエンタリズム」参照。女性についての言及はエレーヌ・シクスーなども参照しています。

*3:植民地主義というと「いつの時代の事いってんの?」的なしょうもないツッコミを受ける事はツイなどでは多いですが、植民地主義は大戦と共に終わったわけではなく、グローバル経済と共にネオコロニアリズムとして今も継続しています。またかつての宗主国はなんらかの形でかつての植民地への優位性を保持し第三世界を継続的に搾取し続けています。

*4:SMの「帝国」に相対する概念として考えると対照をなして面白い。最近の3人のグループとしての行き詰まり、ファンの個人ペン化含め、考えさせられる。そしてSMという帝国の看板は実は日本市場という別の「帝国」に支えられるものである事。(2)で書いてある田中東子さんの記事にも有るが消費を通した市民主義が共和国的と言えるとすれば、グローバル資本主義のネオコロニアルな性質とどの様に対峙するものか?女という「他者」が別の「他者」であるアイドルを買うという事の意味は?

「私」が東方神起を「消費」する理由。(2)

 続きです。(1)はこちらになります。

性はファンタジーであるとともにリアリティでも有ります。性的な消費、にはアイドルから地下アイドル、AV女優、キャバクラやホスト、風俗なども含まれるでしょう。音楽とはまた違った市場が重なってきます。性と音楽、舞踊などが被るのは昔からの事なのですが、かえって現代では切り離して考えようとする方が多そうです。一緒くたには考えたくないというか?珍しく過去記事「ポルノ化する音楽」にキモいというコメントいただきましたが…*1

そういった「類」、のものとして、「アイドル」を「買う」という事には、抵抗感を覚えるというのはひと昔前なら「女」(特に高齢の)には至極当たり前のことだった気がします。しかし、(1)に書いたように西森さんの記事からも読み込めますし、北原みのりさんの『さよなら、韓流』などを読んでも実感されますが、男性の性を「アイドル」という形態で消費することは、2000年代までに日本を筆頭に東アジアの女性に非常に一般化されました。

消費可能な「アイドル」が棚に並んでいるなら、単なる消費行動としてみればそれを買うことは消費者の「権利」と言えますし、構造的には男性アイドルも女性の商品化と消費と同列に捉えるしか無い。しかし、なぜか「女」が「性消費」の権利を行使しようとする時にまとわりつく気持ち悪さ、つまり言われるところの「罪悪感」はいまだ存在する。西森さんの書かれていた事のひとつはパフォーマンスするアイドル、つまり客体になる「男性」への敬意と尊重ということでした。確かに私も常々彼ら、アイドル一般、東方神起メンバーについても、「人間」だろう、とは感じるわけです。私も彼らも同じ人間のはずですし、勿論敬意をもって私たちはパフォーマンスを観覧したり、声に耳を傾けたりしているはずです。そして言ってしまえば、「トンペン」にはメンバーの「人格」や「パフォーマンス」を神聖視する傾向はとても強く、「尊敬」や「敬意」という言葉はあらゆるファンブログ、SNS等に溢れかえっている。でも彼らの身体性、「エロさ」といったものを同時に、そしてとても即物的に扱うフェティシズム*2も溢れかえって居る。

「私」は彼らを「モノ」として扱う消費行動の一端を確実に担っている。彼らの肉体を鑑賞し、その美しいイメージを利用して関係性を舞台上のファンサービス、FFなどで楽しむ、その目線のどれに敬意があってどれが敬意のないものか、くっきり線を引くことは可能なのでしょうか?例えば、女性アイドルの生き方に対して、「アイドルの実存」を見出す男性ファンもいたりします。で、そのような敬意をもっているならば、また、彼ら彼女らが尊敬に値するパフォーマーで有るならば、そういった即物的な鑑賞の目線を向けても彼らを傷つけることはないのだろうか?いったい、敬意やリスペクトという単語の氾濫は何らかのエクスキューズであるとして、それは足りているのか?彼らのお誕生日に聞く「産まれて来てくれて有難う」という言葉に感じる違和感はどうすればいいのだろう?

消費される「モノ」としての男性アイドルと、「主体的/能動的消費者」の前線を歩いてきた「女」。家電やブランド品、海外旅行、文化、芸術などなどを消費してきて、消費者としての地位を(つまり経済力/購買力)を確立した女が最終的に到達しようとしているのは性(あるいはケアや感情、人間そのもの)といった、今まで男性ジェンダーによってほぼ独占的に「造られ」所有され、管理されてきた分野なのかも知れません。「こんなことを研究したい」と私が相談した指導教授は日本の中年女性の消費傾向について、「なぜ靴やバッグではなくきれいな男の子なの?」と真面目に訝っていましたが。

先日読んだサイゾー8月号の田中東子さんによる記事「”選別”に身を投げ出す男性アイドルと消費社会の中で”権利行使”する女性たち」には、眼差す/眼差される事と消費、男性性の客体化による消費主体と客体の逆転現象が最近注目のアイドルエビダン(恵比寿学園男子部)を通して書かれて有りました。記事によればEBiDANというニュータイプのアイドルのあり方は「接触型」と言えそうで、韓流や2.5次元舞台俳優などに共通するプラットフォームをもっているようです。すなわち、消費者が「作っていく」タイプ。田中さんは、その様子を、

 

EBiDANのファンたちは舞台上のパフォーマンスに集中するよりも、ミックスと呼ばれるオタ芸やメンバーへのお約束的なコールをかけることに全力投球している..中略..ここではもはや、パフォーマンスの主導権は男性アイドルたちからファンの女性たちへと委ねられてさえいるようにも見える。

 

と描写し、かつては「見られる客体」であった女性たちが躊躇なく「見る主体」となってその場を占拠し始めていると分析されています。これはまた「消費すること」で「権利行使」をアイドルの上に行うことでもあり、しかしながら彼女は、女が「消費」を通してしか、「権利行使」できないのではないか?という疑問を最後に投げかけるのです。*3

私自身2000年代中盤以降、斎藤工さんなどいわゆる「テニミュ」俳優さんたちのファンダムに身をおいた経験もあり、韓流・K-popアイドルとファンとの関係性との共通点も個人的にだいぶ感じてきました。

東方神起のエピソードで、トンペンならだれでも知っているであろうモノに、彼らが日本で驚いたことの一つに観客が一緒に歌わずにきちんと着席したまま(一定の距離を保って)静かに聞く、といったことがあげられていたと思いますが、そういった「距離感」は外側からの韓流の流入(それも大きいとは思いますが)に限った現象ではなく、実は内側である日本のアイドル業界からも縮められて、どんどん無くなって来ているようです。上記の田中東子さんも文中で男性アイドルの売り方が女性アイドルのそれに似てきているという事を指摘されているのですが、私も東方神起のファンダムとAKBのファンダムに個人ファン化など共通項が少なからず見えるという形で認識しています。(また、そのファンダムはホモソーシャルと常に結びあったりネゴシエートしている事も。)

男性を商品として消費するという事で浮かんでくるもう一つの事例は2000年代中後期非常に盛んだったホストクラブの事です。こちらのホストドキュメンタリー映画 ジェイク・クレンネル監督の「The great happiness space:Tale of an Osaka love thief」が、その内実にかなり迫っていると思います。

youtu.be

*4

YouTubeで見られるようになったのは最近のようですが、通して見たいかたはDVDなりストリーミングできっちりとご覧ください。(このほかに必読と思われるのは中村うさぎさんの『愛と資本主義』です。)この映画ではホスト自身が自分を商品だと言い、女の子の夢を叶え、癒やしてやるのが仕事だと言います。ホストは女に選ばれる存在だと自ら認識しているし、映画を見ている方には「癒し」や「夢」という言葉で語られる幻想が売り買いされる模様が見えます。自らも接客業に従事する顧客の女性の多くも気づいているようにうかがえる。ではなぜホストクラブの顧客たる女性たちは「わかっていて」そのような幻想を買うのか?なぜ買いたいのか?

この映画を友人達(白人ミドルクラスの米国女性)に見せたとき、なぜ「日本人女性」は上記のような欲望(Desire)をもつのだろうか、なぜもっと簡単にセックスを買わないのか?「愛」の幻想を買わねばならないのはなぜか?というのが、彼女たちに共通した疑問でした。

もちろん一つ目の答えは(1)に書いたとおりに買うべき商品が「そこにあるから」でしょう。米国ではこういう業態はほぼ無いに等しいですし、「マジックマイク」のような男性ストリップは一般的とは言い難い。消費しようにもできません。*5二つ目は「できるから」。田中東子さんの記事でも言われていたのですが、「消費」の主役に躍り出た女が当然の権利として「すなる」ことのひとつに「性的消費」もあるのではないか?女が性的な欲望を持つことへのタブー感は、フェミニズムの進行とともに薄れてきました。男性が女性アイドルを性的に消費しているのは明らかで、そういった消費形態が消費社会を代弁するものであるならば、女だけがそれをしてはいけない、という事もおかしいし、男性が客体になってもおかしくない。事実、アイドル消費を含む関連分野と言える腐女子コンテンツの多くもそうした商品創造、消費構造を受容しています。

ファンが消費行動でクリエイターに対して圧力をかける事が可能なまでにその影響が大きいのが韓流や現在のアイドル消費の姿です。「ファンの欲望と妄想に寄り添うようなファンサービスが提供され」、「チョイスし快楽を得られる自由」を獲得した「女」、そして、それゆえそこに生まれる「消費への従属」との葛藤、消費に従属することからの脱却の難しさを田中さんは上記記事にて指摘しています。

どんなアイドルの姿がほしいのか、それはなるほど自由なチョイスです。彼らにそうなってもらうために「課金」する。そのようにアイドルを制御できる事に気づいた時に待っているのは中毒です。でも彼らをどんなに愛し、その生を感謝し、欲望しても、消費する以外に関係を持つことが不可能であるという事実は、選択の余地のないシングルチョイスです。すべてが消費可能な「商品」となる社会(つまり、私たちが生きている現代、資本主義社会の事ですが)においては「愛」とは「フェティシズム」の別称でしかない、という事でもあります。

 

 

愛と資本主義 (角川文庫)

愛と資本主義 (角川文庫)

 

 

さよなら、韓流

さよなら、韓流

 

 

*1:確かにキモイかもしれません。例えばポルノに見られるような「典型的」性愛ファンタジーが現実に漏れ出して、あたかもそれが当たり前、あるいは「本質的」にそうなのだと一般的に考えられるようになる。HENTAIやBUKKAKEが米国ポルノ業界に定着するまで、そんなに時間はかかりませんでしたし。何事によらず、環境により進化、変化はおこるので、一つのものがずっと永遠不変なわけでもないですが、何よりも怖いことは「一般的」とされた考えが他を侵襲して、排他的になることで、ネットはそれを非常に効率的に拡散できる道具だという事です。

*2:尻、胸、唇、指、股間、腕、脇、等を切り取るようなフレームワークは、女性アイドルに対するものとあまり変わらない。

*3:「”選別”に身を投げ出す男性アイドルと消費社会の中で”権利行使”する女性たち」月間サイゾー2015年8月号。P90-91

*4:The Great Happiness Space 監督:Jake Clennell(2006) 

http://m.imdb.com/title/tt0493420/

http://www.thegreathappinessspace.com/

*5:「マジックマイク」は小粒ですが成功したといえると思うので、こういう映画が盛んになることによって一般化する可能性はあり、日本やアジアとはまた別の形態で「男性性」の消費を行っているということはもちろん有ります。

「私」が東方神起を「消費」する理由。(1)

私ごとですが、もうすぐ手術を控えておりまして、その後にブログを書きに帰ってこれるのはいつになるのかちょっと不明です。なので、できるだけ書いて置こうと頑張っています。この後に2つ(3つ?)ほど続く、、、予定です(笑)。

先日西森路代さんの以下の記事を読んでいまして、いつもながらのきちんとした考え方に同意を禁じえませんでした。白状すると、実際に西森さんの記事を名前まで意識して読み始めたのは先月くらいから。ラジオも聞くようになって、しゃべりもおもしろかったんだね!とひとり感動してます。

mess-y.com

記事は、ぜひ読んでください。おもしろいです。映画のほうもオススメです。見る価値あり。なにより楽しい。

で、この記事を読んで、私が何を考えたかというと、触れたくはないけどやはり触れずには居られない消費、という行為と東方神起についてです。上の西森さんの記事では主に男性性の消費ということに焦点が当たっているのですが、自分としては勿論男性性も含む性消費、そして音楽や映像といった文化的商品の消費とそしてそれにまつわる「罪悪感のようなもの」を考えてみたいと思い、以上のタイトルをつけました。

前に書いた記事で私は「好きに理由が要るのかどうか?」という疑問を掲げて有ります。そして、理由は要らないでしょう、と言うことも書きました。それなのにどうしてこんなタイトルなのか?

ポイントは2つ、「私」と「消費」です。*1

「私」については、私とは誰なのか?を明瞭化したい。そしてその「私」がどのように「消費」という行動にかかわっているのか?「罪悪感(のようなもの)」をなぜその対象を「消費すること」によって感じるのか?またその「罪悪感」という感情が何に向かっているのか、「私」というポジション(立ち位置)と「消費」という行為自体の蓋然性/必然性といったところにも分け入ってみたい、と思ったからです。

まずは自分自身の事を確認してみますと、第一に日本人であり、女であるといったアイデンティティになります。それに加え、アメリカ在住17年目になることから「アジアン・アメリカン」というアイデンティティも加わって来ています。その他、日本的な文脈でいうところの「主婦」という役割としてのアイデンティティも賃金労働をしている、していないに関わらずに有ります。似たところで「母親」という役割や年齢、世代の入り混じったアイデンティティ。

もっともっと細かいアイデンティティは挙げられますが、通常朝起きて鏡に写る自分を見ながら思うのは「アジア人の中年の女」であることが多い。ネット上で何かしらの作業をしているときは「日本人」(日本語ネイティブ)であることが多いんですね。鏡を見るときは他人が私という形状を見るであろう目線で、ネットに居る時には姿が見えないから言語感覚を通して自分を捉えて居る。これらの属性は時々互いに利害が衝突したり、交差したり、絡まり合ったり、バラバラの方向を向いたりしながら自分の中に存在しています。自分はたった一人しか居ないにもかかわらず。

そんなアジア人の中年女である私は、アメリカ社会のなかでは間違いなく「マイノリティ」の枠に入ります。有色人種、と言われても日本の国内に居た頃は「黒人」というイメージしか持てなかった私ですが、今は有色人種のカテゴリに自分が分類されることは普通として受け止めています。そして人種と性別、年齢によって3種の差別が自分に振りかかる現実も有ります。しかしながら、そのアジア人の枠の中では日系は韓国系、中国系と共に「モデルマイノリティ」として優位性がある。この点は母国の経済的影響が大きいと言われていますが、米国外に視点を移した時、やはり日本のアジア圏一帯に対する経済的な影響力の大きさは実感されるところです。世界規模で見た場合というか、西側視点では「私」はマイノリティですが、アジアに来ればマジョリティ。しかし女というマイノリティ属性は常に引きずっており、最近はそれに年齢が加わった。年齢は所得の向上と下降の両義存在しますが。

それでは、このアジア人の中年女(時々日本人。)の「私」が東方神起をなぜ、「消費」するのでしょう?

一番最初に挙げておきたいのは、それは、東方神起が「私」にとって「消費可能」なものだから、です。そういうと「違うだろ、なぜお前がそれを選ぶのか?を聞いてんだろ?」と言われそうですが、でもその前の段階をすっ飛ばして話は始まらない。

目の前に消費可能なもの、として存在するということが前提として無ければ選びとって消費することも出来ない。食料品などはどうでしょう?消費することと食べる事は、日本語だとあまり関係がなさそうですが、どちらも英語ではConsumeと言い表されます(それはもう本当に言語からして市場主義的ですが)。消費するものとされるものの間にある上位下位の絶対的位置関係が明らかの現れています。

しかし、消費の前にあるのは生産と流通です。例えば3種類のりんごがあるとして、それぞれに生産され、流通されて店先のディスプレイにABC3種類のりんごとして通常並びますが、その間に虫喰いや不良なものは店先に並ぶ前に選別されて捨てられたり、豚のエサになったり。同じ種のりんごでも店先まで届かないものもあれば、今年はAに病気が発生し、BCしかない。。。よって消費者の前には2種類のりんごの、それも限られた量しか並ばない。ということだってありますよね?

とりあえず、消費者としての私の目の前に並ぶ少なくない数の「アイドルたち」もそのように「生産」されてきている「もの」*2であるということです。彼らはお母さんから産まれただけでは「もの」ではなくて単なる人間ですが、プロデューサーの手を経て「孵化」することによって商品となる。そもそも結婚やら異性愛家族システムそのものが単に近現代を司る「生産労働システム」で、人間を生産と労力としてしか見ていないでは無いかという指摘も尤もですが、商品の流通システムが確立し、「私」の前に彼らが置かれる状況があるということは事実です。

茶の間ファンですので、ライブに海をまたいで頻々と出かけるようなことは無いのですが、それでもCD、音源、DVD、フォトブック等など普通に課金しますし、たまにはファンアートを買ってみたりできるくらいの購買力は有る。そしてネット環境があっていつでもお気に入りのアイドル情報を得る事ができる、気が変われば見なければ良い。私はパートタイム労働者ですし、もっとキャリアがあって高収入、あるいはパートナーの収入が高くて金銭的な余裕があれば、もっと差し出せるかもしれません。トンペンの多くは中流家庭以上の環境出身とよく言われていますし。「私」たちは、自らの消費行動により商品の人気、マーケット動向に影響を与え、次の商品の企画の一端を担うことも可能であり、その商品の命運を左右することが可能な立場に立つことも有る。そのような状態を指す「主体的消費者」という言葉は私が日本で仕事していた80年代後半-90年代にはよく聞かれた言葉でした。

ところで、「音楽」に、お金を差し出すことについてはくだんの罪悪感を感じるかと言えば、そういうわけでは無い。

それは「ポップミュージック」(大衆音楽)というものが、商品として流通する事が定着、常態化しているという「グローカル」な状況があると思われます。遠くない過去にはかなり歴然としていたクラシック音楽との垣根はどんどん低くなって、今や相互通行もできるくらいにまでなっていることも有りますし、地球の南側(東、オリエントでも可能)に一方的に西側から流行の商品がもたらされていた時代が終焉し、かつての「オリエント」は、自身の「文化商品」を生産し、自身の市場で取引し始めている。ポップ音楽が学問的にもクラシックと同列に扱われ始めたということもあります。例えばアートポップの流行もあるでしょうし西側以外の地域のローカル音楽が力を持ち始めているということも有ります。そういった中で、厳密に言えば、未だ頑固に商業音楽を嫌う少数のクラスタを除けば、J-POPや、J-Rockを消費ベースで80年台から体験してきていた日本人の「私」たちには「音楽」の商品化とその消費についての抵抗はほぼ無くなっているといって過言ではないと思います。*3

「日本人」で有る私には、世界第2位の音楽市場が目の前に開けており、それらの商品的な音楽は消費し放題。確かに奏者や歌手やら、パフォーマンスの質、作品の質だとかと言った論争は常にあり、音楽が「消耗品化」することについては、消費者として多少なり罪悪感のようなものは存在すると思います。しかしそれが消費行動自体に疑問を投げかけるまでにはならない。

ですがそれが「アイドル」となると、かなり違った文脈が成立すると思うのです。アイドル、はその主要部分に音楽がありながら、彼らは「音楽作品」として存在するわけではない。前にも書いたと思いますが「偶像」つまりは人間のあるべき理想としての夢、ファンタジーの演者、「神の雛型」が原型でしょう。一方で日本型のアイドルはかなり特殊で、消費者がその裏側である「普通の人間」(それがアイドルの持つカリスマや幻想を打ち消すようなものである可能性を含め)を既知の前提としながらも、あくまで舞台上の、彼ら、彼女らすなわち「職業(家職制)アイドル」の生み出す夢に課金するという、いわば半睡半覚のファン状況を産みながら続いてきていると思います。ただ、現在の容赦無いグローバリズムはその家職制文化から半睡半醒のバランスを次第に奪いつつあるのかもしれません。覚醒しろと言う怒声の裏では、人々がより強烈な「夢」を求めているように思えてならないですし、それがアイドルの「普通の人間」であるはずの部分を侵襲して行っている。そんな感覚を持ちます。

罪悪感の一つの源は、女性アイドルを男性消費者が消費する態様に代表されるように、アイドル消費では「性的な消費」がその中心部を占めていることが原因かもしれません。*4

 *あまりに長かったので以下3段落ほどを(2)に移動しました。ご容赦ください。

*1:「結局誰の事もそんなに好きじゃないんでしょう?」などとよく言われるんですが、そんな事もないつもりですって、前にも書きましたね。多分それも、ある意味では当たっている。なぜならここでポイントを「彼ら」に普通は当てる筈ですが、私の場合は上記の二つですから。最後まで読んでいただけましたら、お解り頂けるように書くつもりではおります。

*2:この、モノ、ですが、以前に書いた記事で、アドルノの言う「文化産業」と商品としての音楽を取り上げて有ります。東アジア的アイドルもこういった文化産業の商品の一つと数えられるのでは、と思います。イスマン先生のカルチュラルテクノロジーはこのアドルノの「文化産業」に情報工学を追加した最先端のかたちでしょうか?

カルチュラルテクノロジーと文化産業について - 夢のみとりz

カルチュラルテクノロジーと文化産業について?萌えと燃え−1) - 夢のみとりz

カルチュラルテクノロジーと文化産業について?萌えと燃え2) - 夢のみとりz

*3:井上貴子。「かつてワールドミュージックのブームがあった」『アジアのポピュラー音楽:グローバルとローカルの相剋』p1-26 勁草書房 2010年

*4:それでも女性アイドルに群がる男性ファンのほうにはそのような「罪悪感」は男性アイドルに群がる女性ファンに比べたら希薄な感じはしますし、きわめて非対称的に女性ファンが罪悪感を割り振られているという図式は成り立ちます。

Monologues of V

気になったMVが有ったので貼っておきます。



스텔라 (Stellar) - 떨려요 (Vibrato) MV - YouTube



Stellar - Vibrato MV Reaction [V is For Vajay ...


ちょっと前に、オレンジキャラメルが女の子が寿司パックに入っている演出でMVを出して、ジェンダー的にあれってことで物議を醸していましたが、それは女の子を「物体」として、また値札付きの商品として扱うことについての議論でした。

これはどうでしょうか?

最後にスイカが潰れるところとか、バービーが手足を分解されてポイポイ山積みされるところとか? 命のないプラスチックの足や胴体は無機物として積み上げられ、有機物のスイカはグシャリと潰れる。

ここで描かれているのは実は(男性の)欲望そのもの?そしてそれがすごくクリティカルに表現されてるように思います。リアクション動画の方では「興奮すべきなのかどうかわからない」という反応。。

ブラインドや足の間から出てきたり、バッグのジッパーを開けたりするのは、女自身の手や指。そして「目」も。

そしてちょっとわかりにくいですが、この刺激的な内容の割には女の子の表情が、わりあい抑え目というか、フラットなんですよね。よく男の出てこないMVで使われがちな「男の欠落による(大げさな)孤独、憂鬱、アンニュイ」は感じられず、代わってやや冷静な表情と男の欲望を観察するかのような「まなざし」にポイントを置いた表現。でもよく見るとガラスのショーケースの中で上から下から横から見られている女の子が視線に気付いて怖がるという部分もありますね。

欲望されて消費される対象から逆に「見られて」いるとしたら?やっぱり答えは「萎える」でしょうか?

また、エロと処女性の同居、というかそれらが同時に求められる矛盾。オットケ、という自問。最近女のAutonomyという事がよく言われるんですが、そういう象徴性でも、男性の欲望(ステレオタイプとしての)を俯瞰している点でもこの動画よくできているなと思いました。


面白いMVを作る人がいるものです。

追記:
彼女たちは食べるのにも困る貧乏アイドルとしても、今ちょっと有名になりかかっているとのことですね。


おまけ:
男の子がガールズグループのダンスをするのを見るの、結構好きです。こういう動画見てるときの気持ちは上記のステラのMVの相対化されたステレオタイプとしての男の欲望を見るのと割と似ているかもしれません。有る意味女の子たちより「女」だし。そういや、おちゃみもやったよね?


HOT] Boys Day(NU'EST, BTOB, VIXX, A-JAX ...

音楽。Exchanging your time and my time....EXOじゃないYO

昨夜はこのアカペラグループThe Exchangeが街に来ていましたので、見に行ってきました。SuperJuniorのカヴァーなんかもやってます。実力あり。YouTubeに動画が上がってますので興味ある方はどうぞ聞いてみてくださいませ。ちなみにチケットのお値段13ドル。貧乏生活なのでアイドルは茶の間のみの私ですが、でも、レストランでもライブハウスでも「音楽」は気軽に楽しめますし、楽しませてもらってます。


Radioactive - The Exchange - YouTube

ところで、音楽ってアイドルビジネスの中の何割くらいを占めるものでしょうか?アイドルは「パッケージ」商品なので、そこのところの配分、配合は企業秘密もあるでしょうし、観客がどれくらいそれを重視するかによって個別に違うという事はありますね。

私は、というとローカルのバーで歌っている友達のバンド(つまりタダ)でも「音楽」は十分楽しめるほうです。というか、もちろんですけれど高いお金を払わないと音楽を楽しめない、という事はない。もちろん、お気に入りのバンドが近くに来て、結構お高い値段でしか見れない、となったら、財布の状況に応じて斟酌するわけですが。でも、実際高いお金を払ったからと言って満足度がべらぼうに高い、というわけでもないんですよね。ただ、高いならそれなりのものを持ち帰ろうという前提は高く設定されてしまうという事はあります。それがポジティブでもネガティブでも。

お高いライブを行う東方神起、JYJのファンは殊に歌の技術や楽曲などに結構こだわる傾向があるようで、私も以前、楽曲MVや歌詞などの読み込みをブログで行って楽しんでいました。楽しめるうちはいいのですが、しかしそういったことがそのアイドル、音楽、楽曲の優劣のJudgementに結びつくような形に世間的にはなりはじめ、ぐったりしてきたというのも事実です。最近は「過去曲」の扱いにかんする道義的糾弾、あるいは技術的な「難癖」ばかり聞こえてきて、うんざりするんですよね。*1

トンペンは『トン原理主義』に陥りがちで、常にその「価値」が揺らがないように思うのかもしれません。でも、、、

音楽学、メディア論の増田聡さんが、歌、特にポップソングの意味を巡って書かれていた論考『歌の意味とは何か?ー声、歌、歌詞の意味論に向けて』が、非常に面白かったので数段落引用してみます。*2この引用部分の前段では烏賀陽弘道氏とボニーピンクの歌詞をめぐる論争が語られており、その「論争」がいかに「作品の良しあし」を巡って勝ち負けに帰着してしまったか、を伝えています。

サイモン・フリスは、歌詞を持つポップソングが聴かれるとき、われわれは実際には同時に三つの意味の水準を聴いていると言う。ひとつはことばとしての「歌詞」である。それは読まれるものとしての詞であり、言語的な水準で意味作用を行なうことになる。次に「レトリック」であり、それは歌唱という言語行為が行なう、音楽的発話の特性に関わる。語調や修辞法、あるいは音楽とのマッチングや摩擦などが、単に歌詞を読むのとは異なる意味形成を生じさせる。最後に挙げられるのが「声」である。声はポップの文脈ではそれ自体が個人を指し示し、意味形成を行なう。このことはクラシックの歌唱と比較してみれば明瞭であろう。クラシックの歌手の声は楽器であり、取り替え可能なものであるが(異なる歌手が同じ歌曲を歌っても、その曲の「意味」はさほど変わらない)、ポップの歌手はその声自体が独自の意味をもつ。同じ歌を違う歌手が歌うとき、両者の意味は異なるのだ。

 中略

歌は理念や言明を説明するというよりも、感覚を作りだし聴衆に接合することに奉仕する。メッセージ・ソングの有効性はこのためにしばしば阻害される。歌において実際に聴衆に向かって提示される「意味」とは、完全に言語的なものに還元できるわけではないし、あるいは逆に完全に音楽的なものでもない。言語と音楽が声によって融合され、聴衆の耳に提示されるその「出来事」が、言語行為的にいかに機能するかによって、歌の意味は多様なありかたをなすのである。


烏賀陽とボニーピンクの論争に見られるすれ違いは、歌と聴衆とが状況依存的に取り結ぶレトリカルな関係抜きで、「歌の意味」を同定し評価(あるいは断罪)することが可能である、と見なすポップ・ミュージックの言説編制に起因する。「歌は世につれ、世は歌につれ」とはいいながら、われわれは「声と歌詞と歌」を同時に聴くとき、そこで何が起こっているのか、まだ何もわかっていないに等しいのだ。
声による歌は身体のサウンドである。それは言語と音楽を同時に運び、言語と音楽の意味作用を越えた「第三の意味」、意味形成性を派生させる実践だ。「歌」という出来事を性急に切りつめ価値判断を下す前にわれわれがなすべきことはおそらく、その出来事に関わる多様なファクターを詳細に見据え位置づける作業であり、けっして同定の容易な「言語的メッセージ」をその出来事全体の意味と取り違えることではない。

私も御多分にもれず、わりと作品を中心に音楽を捉えるほうでした。そして歌詞の持つ言語メッセージをリテラルに受け止めるほうでもあります。でも、この4年、彼ら5人を見てきて思ったのは、どんなに頑張って努力したとしても彼らの技術も体力も容姿も右肩あがりにはいかないだろうし、たぶん逆になることは覚悟しなければならない。そして我々ファンの小手先の解釈や批評などは別に「屁」でもないという事です。

確かにJYJの作品群は自らの手になるものが多く、それは彼らの実存を表している点で魅力的です。そして、東方神起のほうにも井上真二郎さんやユヨンジンさん、園田凌士さんなどいとおしいシグネチャー作家陣が居ます。が、それらはすべて彼ら{アイドル}という「媒体」を通過しなければ私たちに届かない種類の音楽という事に本当に遅まきながら気づいたというわけで。また最近は「媒体」を通過する楽曲の多くがグローバル音楽制作会社が企画立案したもの(アウトソーシング)であることも多いですよね。

そして私たちは多分に作品そのものではなく「彼ら」を見ているし、聞いている。音楽を運ぶメディア=媒体としての彼らに課金しているわけですよね。

だからというか、彼らの音楽を語ることはあんまり意味がない(というか、ほかのどんなポップ音楽も同じ事なのですが)、という事に気づかされたのと同時に、音楽の持つ価値というのはその時、場所、誰が誰の音楽をどのような状況で聞くのかなどによってさまざまに変わりうる、一定のものでは無いという事にもあらためて気づきがありました。JYJのコンサートブランドじゃないんですけど、それこそ一期一会なんだと思います。たとえ同じ楽曲を同じ場所で同じ歌手が歌ったとしても、毎回同じに歌える/歌うわけではない。聞き手の状況も違ってくる。

歌や音楽を「出来事」として捉え直してみたときに、それが現在でも過去でも価値は中立する、ということを考えさせられます。新しいものがすべてなわけでもなければ、オリジナルがすべてなわけでもない。という事です。自分がその音楽と接合した時、場面や状況、感情、その時の彼ら。全てを確認する作業は当然ながら不可能ですが、それでもその感覚がそこに一度だけ存在した事は確かでしょう。

取り敢えず、昨日見たThe Exchangeのみなさんは、非常に声量もたっぷり、愛嬌も有って、清々しかったですし、元気をもらえました。「アイドル」とは、思わないけどね(笑)そしてついでに「ああ5人のアカペラも聞きたいな」、と思いました。

*1:これはアイドルだけに音楽や歌詞、歌唱だけに留まらず、ダンス、衣装、舞台演出にまで及びます。アイドルオタとしては、その辺の批評というのが専らするべきことなんでしょうが。

*2:

歌の意味とはなにか?──声・歌・歌詞の意味論に向けて | 増田聡
What is A Meaning of Song? : Toward Semantics of Voices, Songs, and the Lyrics | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) pp.22-25

From Mirotic to Exotic

EXOの日本デビュー・シングル初動が62000枚ほどと言うニュースを見ました

 

www.tnsori.com

AKBとジャニーズの間隙を縫った形では有るにせよ、結構な枚数が売れたなあという感じです。この枚数に、Kアイドル式(AKB方式でもありますが)の複数買いがどの程度含まれるのか、興味は有ります。

 *などと書いていたらツイッターで14900枚まとめ買いの認証が上がっていてびっくりしました。下記参照。

さて、EXOは東方神起と同じエイベックスレーベルから発進するということで、気になる記事を見かけました。小野登志郎さんの書かれたサイゾーウーマンに載った記事です。

www.cyzowoman.com

この記事では、EXOが如何に正統なる東方神起の後継者であるかということが中国市場戦略中心に語られていまして、挙げられていた過去のメンバーローテーションエピソードの内容を私もくっきり思い起こしました。2004年日本デビューも果たし、「奇跡の五人」という基本コンセプトがファンにかなりアピールして居た頃ですね。勿論私はその当時はほとんど彼らを知らなかったに等しく、ローテーション事件のエピソードも2011年以降に興味を持ち始めてから調べて知ったものですが。

こちらが当時のプレスコンファレンスの様子の動画です。本当に5人がとても可愛いです。


041126 NEWS TVXQ 解散説否定 - YouTube

 小野さんが書かれているように、韓国ではグループのオリジナルメンバーを守ることがよしとされる文化が確かに有るようで、未だにちょこちょこ(ほそぼそと?)と聞こえてくる「完全体(5人)の東方神起をまた見たい」という、コアなファンからではない、一般的な声などがそれを象徴しているように見えます。逆にコアなファンになればなるほど「それは言えない」と沈黙することが多いですよね。こういった発言は言ってるほうにあまり他意はないと思うのですが、それが聞こえるたびに、ファンダムが躍起になって「お花畑」とネット上で攻撃して黙らせる、という笑えない状態には非常に居心地の悪さを感じます。でも、それも東方神起が始まった頃から続くファン現象をある意味代表するものと言えるでしょうね。

 

このような性格、つまりはとても攻撃的で排除的な特徴ですが、東方神起の初期には中国人メンバーの新規加入ということに向けられていたのが、分裂劇が起こった時には二極化して、お互いを排除しあうようになりました。その途上で二人の音声を消して3人だけの声を残した5人曲の動画(いわゆる「鉄道」ムービー)が出現したり、二人だけで過去曲を再録、再発売して欲しいという声(いわゆる「上書き」コール)が大きくなったり「過去の否定」が始まり、同時にそういった攻撃態勢に疲れ棲み分けするファンも多くなりました。棲み分けとは体のいい言葉ですが、要するに地雷を踏まないための「アパルトヘイト」といえるのでは無いでしょうか。

 

そして、こういったマイクロレベルでの「政治的」なファン傾向は、確かにEXOにも受け継がれています。小野さんは「目論見」的な面からEXOを正統なる継承者と名指ししているのですが、私は「結果」としてのファンダムの傾向からもその説を支持したいと思っています。現在3人の中国人メンバーの脱退(もうすぐ4人?)によって、かなり混乱状態にあるEXOファンダムですが、その直前には同じSMエンターテインメント内でのSHINeeファンダムとの争いも顕在化していました。下記の記事ですが、ざっくりと状況を言えば、EXOのデビュー後かなりの数のSHINeeのファンがEXOに流れ、ファン同士が反目しあう状況が生まれた。EXOのファンになった後もSHINeeのファンクラブの会員を抹消せずクラブ残留していたファンがSHINeeのライブチケットを大量に押さえ、それをオークションなどで高額で転売。その利益をEXOの音盤購入などサポートに充てている、というもの。確かに、東方神起先輩も音盤やグッズ購入が「応援」の一番の目玉でしょうか?だから、それを継承することもポスト東方神起には必要なのかもしれません。だとすると、上記の15000枚も「必須条件」としての性格を帯びてきますよね。

seoulbeats.com

実は、私の個人的な感想を言うと、SHINeeは「もう一つの(幸せなままの)東方神起」の面影を濃く宿している、と思っています。それは「正」の東方神起の要素とも言えます。オリジナルの5人をずっと維持し、それなりのソロ活動も有ります。東方神起の分裂を間近で見たからか、先輩グループでSMから平和的独立を遂げた先輩グループである「神話」の非常に有名な東方神起へのアドバイスであった「問題を感じた時は(他人を入れず)にメンバー同士だけで話し合いなさい」という言葉を忠実に守って居るというエピソードも聞こえてきます。ファンダムはこれまた東方神起に似て、年上ファンが多そうです。(東方神起先輩には高齢ファンの多さでは勝てないだろうとは思いますが。笑)東方神起の分裂後に抗争に疲れてSHINeeに乗り換えた日本ファンも多いと聞いていますが、どうなんでしょうか?アイドルに不可欠の萌えと癒しという要素のうち、どちらかといえば彼らは「癒し」の要素が強いアイドルと言えるでしょう。

 

 Miroticから Exoticへ

 他方EXOはEXOで、後継者たる要素がぎっしりです。以前に書いた記事を2つほど並べて置きます。

ravensk.hatenablog.com

ravensk.hatenablog.com

やはりEXOには東方神起と似通った「愛と戦争」を自分もEXOに重ね合わせるようです。比較してみても、「萌え」(あるいは燃え)要素、つまりセックスファンタジー的な要素はどうしてもEXOのほうがSHINeeに比べ強いように見えます。それは元々のメンバー構成が、中国という更なる「差異性」を含んだせいも有るし、加えて相次いだ脱退劇と日本デビューのタイミングを重ねあわせると、分裂後の東方神起とJYJに使われた「排除の物語」が比較的容易に使えると言う部分もありそうです。脱退した(しかけている)のは全て中国人メンバーですし、日本側では元々有る「嫌中」感情を利用して残った8人(または9人)を「クリーン:非-金の亡者」イメージで運営していけそうです。また中国側ファンダムの日本市場に対する競争意識またその逆を刺激する事も出来ます。小野さんのおっしゃる日中のファンのガチンコ勝負がそれでしょうか?上の様な中国ファンの爆買い現象を日本市場で利用できるなら、SMのみならずエイベックスにとっても内需だけに頼らない販売戦略が組めるでしょう。いずれにせよEXOの早い成功、早い分裂が見せているのが東方神起の歴史の中の「反」的な特徴かも知れないと思っています。戦いというものは酷く「セクシー」ですからね。

ついでに東方神起の歴史の、その「反」である3人側、グループとしてのJYJについても言及しておけば、「物語」を使って居たのは同じで、反対側から見た「排除の物語」つまり「奴隷契約に訴訟で立ち向かったが、芸能界から干される」というストーリーに成っています。そしてこちらのストーリーは日本では力を持ち得なかった。なぜでしょう?

日本のファンの反応をじっと見ていると、やはり日本という国の世相を写しているなと感じる事が多々あります。例えば「副業アレルギー」とも言えるような反応、アイドルが政治的になることへの拒否反応などが度々現れます。アメリカ在住で、仕事をいくつも掛け持ちすること*1を見慣れている私には「副業アレルギー」は昔日の記憶、なのですが、日本では今でも多分に現役のコンセプトなのですね。

また、例えば政治問題や自らの存在と社会との軋轢をポップ歌謡として歌い込む事がK-popでは日常茶飯時に有りますが、東方神起の初期のヒット曲も韓国語版はわりとガチに思想的だったりしますが*2日本語歌詞の方はは内容に深入りはしていない。竹島問題や慰安婦問題などに芸能人が触れる事も、また社会奉仕活動など政治性の高い活動に携わる事も通常モードで韓国芸能界では見られるようですが、日本では、それらが反日であるから反発するということもさりながら「政治的」である事自体にも大きな拒否反応が起きている気がするんです。SEALDsなんかへの拒否反応を見ると納得出来るのですが、JYJが分裂後にとてもメッセージ色の濃い楽曲を出したときの反応も、日本ではイマイチというか割と冷めたものであったと思います。

AKB等は逆に「政治」を利用して居ますが、これは虚構性が基本としてあるわけで、実際に現実の政治に物申してしまったアイドルは結構な勢いで駆逐されてますよね。*3何より、AKB政治の主権者はファンであって、彼女たちがデコイであるか、決められた籠の中で政治ごっこをしているのは確かで、それは、組織を動かしているのが彼女たちではなく、「民意」を反映するとしてもあくまで秋元さんというのが有るでしょう。でも実際の日本の政治状況よりもAKBの総選挙のほうが余程面白いのも確かです。

 

これらは本業を正しく真面目に分相応に行なってさえいればきちんと果報が得られると期待するという社会構造*4や、たとえそれが幾分理不尽であったとしても声をあげたり「被害者」を名乗ることはあさましいと見て嫌う文化的な背景が有るでしょう。ロック・バンドであればいざしらず、殊にアイドルがそれをやるとなれば大切な「癒やし」や「萌え」が消えてしまう。フィクション的な政治性や曖昧な精神論、自分語りは許容範囲であっても政治的に立ち入った内容やリアリティはNGを突きつけられる。アイドル、韓流アイドルには特に、ファンが優位に立てる事、消費によって制御できる「萌え」がひどく重要だということでは無いでしょうか。

 

結局「アイドル」はアイドルという萌えや癒やしというサービスを提供するべく創られた商品であって「人間」でも「神」でもない。人間ではない彼ら、彼女らに「政治はない」というのが、かなり乱暴に括れば日本的なファンの態度かも知れません。*5

相手が自分と同等の人間、あるいは踏み込めない神と認めてしまった場合そこに「萌え」や「癒やし」、あるいは性的な興奮は求めにくい。アイドルのネガティブな実像を運悪く見てしまって、萌えられなくなったと言うのはよく出産立会をした旦那様がたが「女房を人間として尊敬するけど、セックスはできなくなった」と言うアレに似ているなと思います。*6

ファンは自分たちが非常に政治的な動きをしているのにも関わらず、アイドルに政治を認めないというのが苦笑せざるを得ないところでは有りますが。勿論、この構造をコロニアル理論やネオコロニアル理論と関連付けて観る事も可能です。上野千鶴子先生が北原みのりさんの『さよなら韓流』で述べられていたように、私達は「韓流」男性アイドルのマスキュリニティを”思うさま消費”している。彼らを「管理可能な理想型」としてマイクロレベルでとても政治的に争奪しあっている。しかし、その政治性を自覚することを嫌がってもいる。と、思うのです。実際、マクロレベルの政治にも非常に影響されていると思うのですが。

こういった「結果」としてのファンダムの性質から見て、確かにEXOはまさに東方神起の正統な後継者である、と言えるとは思います。そして柳の下の泥鰌はいったいどんな泥鰌なのかも気になるところではあります。

*1:これは余分なお金が欲しいということも勿論有りますが、副業しないと生活が回らない貧困層の厚さ、また副業することも「働き者」とみなす文化も有りますね。日本では「ずるい人」というイメージでは無かったでしょうか?

*2:ユ・ヨンジンの哲学三部作などが典型的。

*3:憲法で有名な内山奈月さんは、自ら卒業するのでしたっけ?

*4:メリトクラティックな構造ですね。バブル期までは日本は世界でも稀有な位メリトクラシーが進んでいた様に見えましたが。今では。。。

*5:人間では無いのはある意味「女」も同じなのですが。。。

*6:この場合の神はあくまで一神教的神であり、制御できない、推測不可能でいう事を聞いてくれない「裏切る神」を指します。ネットスラングのネ申は「理想」に近い。大澤真幸さんと橋爪大三郎氏の対談を資料として挙げておきます。

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書) | 橋爪 大三郎, 大澤 真幸 | 本 | Amazon.co.jp

ニホンゴ、エスノセントリズムそしてTohoshinki

先日、シムさんで記事を締めたあと、またまたすごいことが世間(トンペン界)的に起こっていました。某エイベックスCEO松浦勝人さんのインスタグラムに、シム・チャンミンさんが現れてしまった事件です。

news.livedoor.com

「ケリョンデの奇跡」*1とはまた違った意味で「ありえない」出来事になりましたよね、トンペンさん的には。ケリョンデもそうでしたが、こちらも2009年年末以来の出来事。この間ほぼ6年です。2011年半ばには日本市場復帰を果たしていた二人ですから、頻々と来日していた4年半の間面会しようと思えばできなかったこともないはず。なので、その間面談がなかったらしい、という事にまずかなりびっくりしましたが、どんどん増えていく怒りのコメ群を見ながら、考えました。

追記:今は消されて見られないのかわからないのですが、再始動後にハワイで会ってるとツイートされてたんですね?松浦社長。で、その時も散々炎上したと。その時は3人側からの批判が凄かったらしいとも。とすると、このキャプション、なぜまたしても誤解を招きそうな表現なのかなあって考えちゃいましたね〜。。。2011年のツイートも「言葉を交わした」と明らかに判定できるのはユノだけみたいですし。

コメントは、二人の東方神起ファンからの過去の彼の二人に対する行い*2への遡った批判と、それを今また持ち出したことによるファン感情の再度の傷つきへの配慮の薄さなどを指摘するものが多数。しかし、その合間にこれもなかなか少なくない「5人ファンです」と名乗るコメントが交錯し、さらにはその5人ファンと二人の東方神起ファンがコメント欄で争うというカオスとなってしまっている。相変わらずトンペンの「愛と戦争」パワーは有効です。

しかし、松浦さんが今回のインスタグラムのツーショット写真のキャプションで書かれている「あれ以来」が、2009年末の事と仮定するなら、前回の炎上の際(明けて2010年、5人の東方神起の活動無期限休止が伝えられた当時)とその後に続いたJYJの活動とその停止、3人のエージェント会社社長との訴訟トラブルの際には「3人」側のファンの存在が確かに感じられたのですが、今回の「炎上」を見ていると3人、JYJファンの「影」はほぼ感じられなくなっている、ということに改めて気づかされました。「2」と「5」しかない。これって、東方神起の分裂を知っていて、ファンが2と3に分かれた二つの側について争った、というところあたりの一般的な知識を持っている方にはどうにもわかりにくいことかもしれません。

今回が、二人の東方神起側であるシムさんの事だから、という部分を差し引いてみても、以前ならもめ事が勃発した場合、「3」という箱(グループ)のファンの立場が明瞭にわかる程度にはファンダムの存在感が有ったと思うのですが。。。

 

実際、二人の東方神起と3人のJYJは、対置可能なグループではないというのが私の持論ですが、ペンが非常に個人ファン化したとはいえ、箱として保つことにファンをなんとか同意させることが可能な東方神起に比べ、JYJは箱として「プロデュース」されて誕生したものでは無いゆえか、ファンのグループからの心情的離脱に歯止めをかける事が難しい。それがどんどん表れてきている気がします。*3

何より、松浦さんのつけたキャプションから推察するに、今回のちょっとKY気味なポスティングはもちろんエイベックスのレーベルから売り出しが決まったEXOのアピールもあるでしょう。EXOについては次の記事で書こうと思います。トンペンの動向に刺激されるEXOペンというのも少なからずいるんじゃないかと思いますし。

 

ここで自分にとっては見落とししたくないことが一つ。

東方神起の日本ヴァージョン。言語からファッション、ふるまい方までローカライゼーションを施され、「東方神起はJ-Pop」とまでファンに言わしめた過日の5人のTohoshinki。それは彼松浦さんを頂点とするAVEXとそのスタッフが間違いなくプロデュースし、プロモートし、売り出したものであるということ。

先日こちらでiTunesを眺めていて気づいたのですが、2011年以降の東方神起は少なくとも米国では純然たる韓国アーティストとして扱われているようです。2010年のベストアルバムを最後に、楽曲の販売元はSMエンターテインメント一本に切り替わっており、2011年以降の東方神起の日本語曲は世界最大の音楽市場である米国、その第一位の音源サイトiTunesで入手することができない状態なんですね。販売権、また一時期言われていた東方神起の「レンタル権」が現在どのようになっているのかは知りえないところですが、実際のこのような販売の様態から掴めるのは、2010年には東方神起は(日本市場への)現地化のフェーズをほぼ終了し、以降はいわゆる「韓流グローバリゼーション」の一角になったのではないかということです。もちろんそのグローバリゼーションには日本市場も含まれるのですが、Tohoshinkiが市場の内側からビジネスをしていたのに比べ東方神起は外側からのアプローチ、と言えるのではないでしょうか。*4

2011年、2012年とK-POPが必死に北米市場のドアをたたいていたころに書いた記事を以下に挙げますが、このころ、そしてそれ以前は殊更ということになるのでしょうが、K-POPが、北米市場に入り込むのにオタクや漫画、アニメ等というJ-カルチャーが形成していたプラットフォームが必要で、それゆえか、ほぼ初めてアメリカの音楽誌がK-POPを取り上げたとき、当然のように取り上げられた東方神起も、楽曲は『どうして君を好きになってしまったんだろう』という日本語曲が選ばれています。

ravensk.hatenablog.com

ravensk.hatenablog.com

奇しくも東方神起の分裂と再起動の時期はアジアのポップ音楽の主たる担い手が日本から韓国におおきくシフトしたはざまであった、という事。もちろん日本市場もBoAや東方神起による開拓が功を奏して受け入れ態勢ができていたということはあるでしょう。ファンは日本語で接してもらえることを基準視しながらも韓国語を学習し始めていましたし、韓国語にたいするアレルギー反応的なものはなくなりつつありましたよね。韓流ビジネスの要点として、Proximity とDisparityの併用ということがよく言われてますが、日本語の使用によって高められた近似性から、韓国語の使用にも逆にスムーズさをもたらしながら異文化の注入を試みる方法は2012年からの政治的な日韓関係の冷え込みなどがなかったら*5日本でももっとうまくいっていた事でしょう。ただし文化的近似性すなわち

Cultural Proximityによるアプローチは常にエスノセントリズムと隣り合わせてしまうことはよく指摘されています。*6

 

かたや米国市場では、漫画やアニメ等のオタク文化により「アジア系(ほぼ日本系コンテンツ)ポップカルチャー」に目覚めつつあった層がK-POPもそれと同質なものと捉えるProximityの段階を経て、今度は韓国文化が「もっと新しい・もっと刺激的」と捉えられるDisparityの段階に入りました。以前からある英語使用や、日本よりも欧米型に近い「セクシーさ」なども加え、文化の共有によって新しい近似性をさらに構築していくといった間断ない繰り返しのアプローチで韓流はミレニアル市場に食い込んで来ているといったところです。最近日本に進出したNetFlixアメリカ版にも韓流ドラマが一時期と比較にならないほど大量に網羅されていますし、K-Pop専門のラジオ局もできてサテライトで全米どのエリアでも聴取可能となっています。

www.siriusxm.com

「もはや戦後ではない」、ではありませんが、ニホンゴで歌わなくても、ニホンゴでしゃべらなくても、英語ですらなくても、大丈夫なのかもしれない。生活の中に違和感をそれほど感じさせずに入り込んでくるK-POP、そういう時代が来つつあります。私自身のエスノセントリズムというものも確かに心情的にはもちろん有って、5人がJ-POPのまま継続して世界に売り出されていたらなあ、と内心ほぞを噛んでいたりします。言語というのは大事です。その文化の核ですし。わがままとは知りつつも「5人の夢」にはそういう根っこも少なからずあり、消えた「3」を思いつつ、「2」と「5」という数字がどう変化していくのかを今後もしばらく追いかけたい次第です。

 

*1:2015年10月2日。ユノさんとジェジュンさんが「奇跡的」にも公式的に、再会を果たした一件です。ツイッターでは大変な祭りとなりました。

*2:いわゆる「チャンミン握手拒否事件」が有名ですね。当時所属するSMエンターテインメントに対し訴訟の渦中にあった3人側を当初支持していた松浦さん。握手することを拒んだチャンミンの態度などを松浦さんがツイッターでネガティブにつぶやき、当時もかなり炎上したようです。

*3:また、反語的な言い方になりますが、アイドルビジネスは「供給有っての需要」であることが如実に表れている気がします。市場にないものは買いようがないですからね。

*4:ここで、思い出すのはJYJとエイベックスの裁判資料の中で、JYJの活動を日本国内のみに限定し、JYJは海外で活動しない制限が契約に加えられていたことです。なぜこのような条件が加わったのか、当時は不思議でしたが現在の「東方神起」販売の形態をみればわりと納得できるのではないかと思います。裁判記録は閲覧制限がかかっていないのであれば東京高裁にて閲覧可能かと思われます。

*5:愛国クラスタとかなりかぶっている高齢層が主要ターゲットだったということももちろんありありなのですが。

*6: Yoo, JW, S Jo, and J Jung. "The effect of Television Viewing, Cultural Proximity and Ethnocentrism on Country Image."  Social Behavior and Personality. 42 no.1(2014): 89-96.